日立の歴代社長(CEO)の実績・評価・評判

名前 実績・評価・評判など

小平浪平

(おだいら・なみへい)=創業者

小平浪平

勤務先の鉱山会社の製造部門を独立させる形で創業。「国産の発電設備」をモットーに、自前の技術力で真っ向から勝負する実力派メーカーとして急成長。化学などの異分野にも積極進出。総合電機メーカーとしての基盤を築いた。

【在任期間】
1910年11月(社内事業として立ち上げ)
1920年2月(独立・法人化)~
1947年3月退任

【生まれ】
1874年1月15日

【死去】
1951年10月5日(享年77歳)

日本を代表する総合電機メーカーを築いた。

大学卒業後、東京電燈(でんとう)で当時国内最大の発電計画に加わる。 設備や技師を外国に頼る実情を嫌った。 すべてを自前の技術で賄う一大事業を目指して寒村の日立鉱山へ。 間もなく小さな丸太小屋で5馬力モーターを製作。 5年後には1万馬力の水車や5万ボルトの試験変圧器を受注して日立の礎を築いた。

出身地

栃木市都賀町(当時:家中村)

出身校

東京大学(工学部)=当時は東京帝国大学工科大学電気工学科
※1900年卒業(明治33年)

新卒での就職先

小坂鉱山(秋田県鹿角郡)
※1900年入社(当時27歳)
※久原房之助が率いる鉱物資源会社

創業前のサラリーマン時代

「小坂鉱山」入社後の略歴

新卒で入社した小坂鉱山は、藤田組(現:DOWAホールディングス)が運営する資源会社。藤田組のオーナーの一族である久原房之助氏が経営していた。

小平氏の入社時の職務は「工作課電気係長」。月給70円で、当時としてはかなりの厚遇だった。さっそく、鉱山の動力源の確保のため、新たに発電所(第二発電所)を建設するミッションが与えられた。すぐに「止滝(とまりだき)発電所」の建設工事のリーダーを担当。入社2年後の1902年には無事に運転開始にこぎつけた。

入社4年目には1904年1月、小坂鉱山を早々に退職する。関東地区で「東京電灯」が計画する大規模な発電所プロジェクトに参加するためだったとされる。東京電灯はそのころ、富士山麓山中湖を水源とする桂川を利用した「駒橋発電所」の構想を進めていた。その話を大学時代の師の一人である中野初子(男性)から聞きつけたようだ。

東京電灯入社

小平氏は広島の電力会社で1年間経験を積んだ後、東京電灯に入社。「送電課長」という重要なポストに就任し、駒橋発電所の建設に尽力した。「東洋一の出力」「世界最高の高圧電流」とされ、東京へ電力を送る国家的プロジェクトだった。

外国に頼る現実

この仕事を通じて小平氏は苦々しい思いを募らせた。国家的なプロジェクトといっても、使用する主な設備は外国製ばかり。たとえば発電機はドイツのシーメンス製、変圧器はアメリカのGE製、水車はスイスのエッシャウイス製だった。日本のメーカーには自前の技術がなかったからだ。建設現場の指揮も、要所では外国人技術者に頼り切っていた。

「国産」への渇望

「外国に依存してばかりでは、日本の工業が立ち上がらない」という危機感を抱いた。小平氏が生涯モットーとする「国産」主義に火がついた。

元上司・久原房之助と意気投合

自前の技術で発電設備をつくるという小平氏の野望に理解を示したのが、小坂鉱山の上司だった久原房之助氏だった。

このころ久原氏は、1905年に個人で買収した鉱物資源会社「日立鉱業(後の久原鉱業)」(茨城県日立市)の経営に乗り出していた。田舎の小さな鉱山を全国屈指の規模にすべく、小坂鉱山から部下40人を引き連れ、陣頭指揮にあたっていた。

久原鉱業所日立鉱山に入社し、初代工作課長に

小平氏は1906年10月、東京電灯を退社。日立鉱山に入社し、初代の工作課長となった。

久原氏から以下の任務が与えられた。

  • 鉱山用の発電所の建設
  • 鉱石から金属を抽出する「製錬設備」の建設
  • 鉱山用の鉄道の敷設
中里発電所

着任後、すぐに「中里発電所」(茨城県日立市)の建設に取り掛かる。地元の電力会社が建設を進めていたが、難航していたところを、久原が鉱山用に買い取った未完成プロジェクトだった。小平氏はわずか4カ月で完成させた。

日本2位の「石岡」も

翌1908年には「町屋発電所」(茨城県常陸太田市)を建設。さらに日本で第2位の規模となる「石岡第一発電所」(茨城県北茨城市)も完成させるなど、超人的な活躍ぶりを見せた。

創業

小平氏はここで、自社の鉱山向けの設備にとどまらず、独立した「メーカー」へと脱皮する計画を立てる。

小平氏が職場としていた日立鉱山の機械修理工場(茨城県日立村)は、山あいにあるボロ小屋だった。作業員7人とともに、鉱山から次々と運ばれる機械の修理に明け暮れていた。大半は外国製の機械だったが、修理しながら自分で製作する方法を研究した。

事業計画書をつくる

1910年(明治43年)の初頭、小平氏は久原氏に収支見通しを提示したうえで、独立した「製作所」への出資を願った。

計画では、資本金を9万円とし、以下の使途に投じるとのことだった。

  • 「工場起業費」5万1763円50銭
  • 「在来物件」2万1500円50銭
  • 「営業資金」1万6736円。

モーター完成&新工場

1910年、小平氏のチームは、修理工場で5馬力のモーター(電動機)3台を完成させる。

その後の同年11月、新工場が完成し、それまでの小さな修理工場から移転する。日立村宮田芝内の約1万3000平方メートルの敷地で、後の「日立製作所 日立工場山手工場」となる場所だ。小平氏はこの工場で、本格的に電気・機械の製作事業へ乗り出すことを決意する。これが、日立製作所の「創業」と位置付けられている。従業員は約300人。若く優秀な人材が集まっていた。

「久原鉱業所日立製作所」を発足

1911年7月から、「日立鉱山工作課」でなく「久原鉱業所日立製作所」と名乗るようになり。外注業務を受け始める。1913年、当時国産最大となる1万馬力水車を「利根発電岩室発電所」に納入した。

第一次世界大戦(1914年~1918年)が始まると、外国製品の輸入が困難となり、日立製作所への注文が急増した。1918年、小平氏は工場運営を部下に任せ、拠点を東京に移して自ら営業や資金調達に走った。

久原氏は当初「独立慎重派」だった

とはいえ、久原氏をはじめ鉱山の経営幹部は、メーカー業務に消極的だった。小平氏の貢献と熱意に負けて、やむを得ず日立製作所の創業を認めたとされる。

法人化(独立会社に)

親会社が経営危機

第一次世界大戦が1918年に終了すると、親会社・久原鉱業は経営が悪化する。国際銅価格の暴落などが響き、資金繰りが苦しくなったのだ。久原鉱業はグループ内で唯一業績が好調だった日立製作所を分離し、出資を募ることで資金難を乗り切ることになった。

1920年「株式会社日立製作所」設立

小平氏の念願だった独立の機会がついに到来する。1920年2月、「株式会社日立製作所」が発足。資本金1000万円。従業員2700人でスタートした。

久原鉱業が80%の株主

新会社の株式の80%は久原鉱業が所有した。つまり「独立」とはいえ子会社だったのだ。

発足当初は専務

日立製作所の取締役には、小平氏ら5人が就任。1920年2月5日の取締役会で、経営トップとして小平を専務に選任した。

社長になる前の「お試し期間」

小平氏は経営トップだったが、社長でなく専務という肩書だった(社長は空席)。なぜ専務にとどめたかというと、株主サイドとしては「お試し運転」を設ける意図があったと見られている。

久原鉱業グループ「佃島製作所」を買収

独立後の日立は1920年、さっそく久原鉱業から「佃島(つくだじま)製作所」(後の亀戸工場)を買い取る。日立工場に次ぐ第二の製造拠点となった。

2つの工場の分担は以下の通り。

工場 生産品目
日立工場 発電機、変圧器、配電盤など電気設備
亀戸工場 水車、ポンプ、起重機など一般機械

さらに1921年には、日本汽船の笠戸造船所を買収した。

関東大震災をバネに

発電設備を多数納品

1923年の関東大震災では茨城県は比較的被害が少なかった。日立製作所の日立工場も幸い無傷だった。東京の亀戸工場も、若干の被害を受けただけだった。

震災後、日立は電力会社や鉄道省などから、多数の変電・発電設備の注文を受けるようになる。

「電車」を政府に納入

1924年、電気機関車の公開試験運転に成功。のちに3両を鉄道省に納入する。扇風機の量産化にも成功。1926年には扇風機をアメリカに輸出する。日立にとって初の海外進出となった。

国産路線を走る

勃興期の日本の電機業界において、多くの企業は外資との提携に頼らざるを得なかった。

たとえば先発の芝浦製作所(後の東芝)は、当時の世界最大の電機メーカー、米GE(ゼネラル・エレクトリック)と提携し、新鋭機を市場投入していた。三菱は米ウェスチングハウスと、富士電機が独シーメンスと提携していた。

それを横目に見ながら、日立は悪戦苦闘しながら「国産路線」「自前路線」にこだわった。外国メーカーに頼らなかったことで、提携先から制限をほとんど受けることなく、海外に販路を拡大することができた。

日本の電機メーカーと外資の提携

メーカー 系列 外資との提携
芝浦製作所(後の東芝) 三井財閥 1910年、米GEと資本提携
三菱電機 三菱財閥 1923年、米ウェスチングハウスと資本提携
富士電機 古河財閥 1923年、独シーメンスとと資本提携

昭和初期の躍進

1929年、社長に就任

1929年、小平氏は順当に専務から社長へと昇格する。 この時点で、親会社の久原鉱業は破綻寸前に追い込まれていた。関東大震災も大きな痛手となっていた。久原房之助氏は実業界を引退。後任社長に鮎川義介が就任した。

1929年6月から、小平氏は親会社の久原鉱業の取締役も兼務するようになり、「親子逆転」のような状況になった。

化学分野に進出(1929年)

不況下の土地買収

1929年(昭和4年)、世界金融恐慌が訪れて業績が悪化する。しかし、小平氏は萎縮することなく、大きな挑戦を決断する。化学分野 への進出だ。 海岸沿いの広大な土地を買い取り、製カン工場を建設する。昭和肥料(現・昭和電工)からアンモニア肥料用の「水電解槽設備」を受注。国産技術での製造は不可能と思われていたが、見事、1931年に納品する。日本の産業界にとって画期的な成果だった。 このときの小平氏の英断は高く評価されている。

外資との技術提携

昭和に入ると、日立は火力発電分野において、外資との部分的な技術提携に踏み切った。

戦前の日立の例外的な外資提携
分野 提携相手
ボイラー製造 1927年 英ヤーロー
蒸気タービン 1931年 ドイツAEG
※技術提携(特許の利用)
==>1932年に日立製蒸気タービンの第1号を長崎紡績から受注し、翌年納入

上場(1934年)と買収攻勢

1934年に株式を公開。資金力を高めたことで、買収を積極化させる。

相次ぐ買収で多角化

大阪鉄工所買収

1936年、「大阪鉄工所」を買収。後に「日立造船」となる。

鮎川グループ「戸畑鋳物」買収

1937年、鮎川義介氏が率いる「国産工業(旧:戸畑鋳物)」を買収。鮎川グループの発祥企業だった。これにより戸塚工場などを手に入れた。

「理研真空工業」買収

1943年、「理研真空工業」を買収。「茂原工場」となった。

軍需工場に転換

1941年(昭和16年)に太平洋戦争に突入してからは日立の仕事も順次、民需から軍需に移行。兵器などを生産した。

茨城県内をはじめ多くの工場は、空襲や艦砲射撃で甚大な被害をうけた。昭和20年(1945)空襲で、小平氏の東京の自宅も被災。

公職追放で退任

終戦後の昭和22年(1947)、GHQの指示による第2次公職追放で、小平氏は社長を退任。倉田主税が第2代社長に就任する。

人材育成

在任中、小平氏は人材育成にひたすら力を入れた。

1910年(明治43年)4月、若手技能者を養成する「徒弟養成所」を開設。見習工36名を徒弟に編入し、学科と実習による技能者の社内教育を開始した。その後、「徒弟養成所」は「日立工業専修学校」と改称された。企業内学校として、生産現場で日立の「モノづくり」を支える人材の初期段階の育成を担い続けた。

退任後

小平氏は公職追放後、ほぼ自宅にひきこもって、日立の工場から送られたオノをふるって毎日まき割りを仕事を励んでいたという。

会社社に入らず

本社の前を通りかかったとき、倉田社長らが「社に寄って下さい」と強引に引き止めようとしたが、にこやかに笑うだけで一歩も会社には足を踏み入れなかったという。

相談役に

1951年6月、追放解除になる。倉田社長もう社長への復帰を懇請したが、頑なに固辞した。「それならせめて相談役にでも」と、なんとか相談役に就いてもらった。

経営スタイルと人柄・性格

真摯、誠実、信念に徹した事業家。「空気の如く、水の如く、米の如し」と評された。

お金に淡泊

金銭面にきわめて淡泊で、私財を増やそうとしなかった。 会社のオーナーにもならず、一族を後継者にせず。ただひたすら、会社を確固たるものにするために一生を傾けた。 質素で野武士的な精神は、戦後の後輩たちに引き継がれていった。

聞き上手

聞き上手のリーダーだった。戦前の日立には、戦後の「常務会」に相当する「要務会」があったが、小平氏は午前10時から午後6時までの会議でほとんど発言しなかったという。このため、他の幹部たちは経営戦略について、自由に意見を表明できた。

提出される重要な議題も、小平氏でなく、副社長の高尾直三郎・副社長らが提出した。

小平氏は何事においても豊かな戦略や鋭い見解を持っていたが、あえてそれを抑えることで、部下たちの自由闊達な議論を促すことを狙っていたようだ。

むろん最終的な結論には関与し、自ら責任を全面的に担った。

家族

1904年5月、大学時代の親友の妹である也笑さんと結婚。
1905年5月、女児が生まれた。


倉田主税

(くらた・ちから)

【期間】
1947年3月1日
1961年11月

倉田主税

創業2年目に入社。戦後の公職追放で上層部が一斉に退任したのを受けて2代目社長に。経済混乱や労働争議を乗り切り、GHQによる企業分割も回避。「日立電線」「日立金属」を独立・上場させるなど、グループ会社の「自主独立路線」をスタートさせた。

【生まれ】
1886年3月1日

【死去】
1969年12月25日(享年83歳)

社長就任時の年齢

58歳

社長就任前の役職

常務

前任者の処遇

公職追放

人事の背景

1947年にGHQが行った第2次公職追放により、日立製作所の首脳が一斉に退任に追い込まれた。

創業者兼経営者だった小平浪平以下16人が追放され、倉田氏を含めわずか2人の取締役が残った。

社長就任前の評価

「電線」という日立内ではやや傍流の畑を歩んだが、軍納部長や工場長などのリーダー役として高いマネジメント能力を発揮。評価を高めていった。

出身地

福岡県

出身校(最終学歴)

仙台高等工業(現:東北大学工学部)=主に機械工学を学ぶ
※1912年3月卒業

入社年次

1912年4月
※1910年に創業したばかりの日立に新卒で入社。

入社理由

学校の先生の推薦

キャリア

入社後の処遇でトラブル

事前の約束と異なる非正規雇用

入社して最初の職責は「工作課抜型係主任」。 入社前は「正社員(職員)」という約束だったのに、正社員でなく「雇員(非正規従業員)」とされた。 給料は事前に聞かされていた「月給25円」より高い「月給35円」だったが、いずれにせよ雇員という扱いは明らかに事前の約束に反しており、おかしい。

初任給の差別

さらに、入社3か月後に驚くべきことが起きた。その年の7月に入社してきた東大卒の給与が、自分の2倍の「月給70円」だったのだ。

これを聞いて、当然怒った。同じような扱いを受けた同期入社の仲間たちの一部は辞めていった。しかし、倉田氏は踏みとどまった。

電線分野のリーダー

1916年から1938年まで22年間にわたり、電線製造装置の開発・製造の責任者を務めた。工員集めも担った。この間、褒賞制度を導入するなど、部下の士気向上に取り組んだ。

軍納部長

1938年9月、軍部との取引の窓口となる「軍納部」の初代部長に就任。日立市を離れ、東京・丸の内の本社勤務となった。1941年10月に取締役へ昇格。

笠戸工場長(1943年11月)

1943年11月、笠戸工場長(山口県)に就任する。約1万人を擁する大工場だった。 以前は蒸気機関車を製造してきたが、戦時体制への移行に伴い、軍需品もつくるようになっていた。

士気が低下していた

当時、笠戸工場は士気が著しく低下していた。工場内には職場の悪口の落書きがたくさんあったという。 倉田氏は赴任後してから毎晩、従業員と飲めぬ酒を飲んだ。従業員が出勤する6時前に通用門に立って一人一人に挨拶し、励ました。そのあと工場全体をくまなく見回り、工場の規律を回復させた。 陸軍の要望で潜水輸送艇の製造も手掛け、成功する。本土決戦に備えて人間魚雷「回天」も15隻くらいつくったという。

工場への空襲

1945年5月15日、工場が米軍の空襲を受ける。50機のB29による大爆撃だった。 設計者と設計図の隠れ家となっていた近くの寺が爆撃を受け、設計者1名が死亡した。工場内にスパイがいたようだ。

終戦直後から鉄道を大量生産

敗戦後も車両の製造および修理の注文をこなした。1945年9月から1946年3月くらいまで鉄道省からの大量注文に追われた。1947年1月常務に昇格。1947年3月社長。

生誕・出生

1889年、福岡県宗像郡にて造り酒屋を営んできた家に、8人兄妹の長男として生まれた。

父親

主米造
※酒を飲み過ぎて体を壊して亡くなった。

母親

シナ

父方の祖父

津九郎
※91歳まで天寿を全うした。
※造り酒屋から製糸業などの新規事業に進出。金山、炭鉱、森林開発、台湾鉄道にも手を出した。しかし、いずれも失敗に終わった。そのたびに保有する土地を手放す羽目になった。

子供時代

祖父の影響で尋常小学校1年から喫煙。進学を目指すも、試験日を失念して1年浪人。1年遅れて福岡県立小倉工業学校へ入学した。2年次には特待生となって月謝を免除された。

大阪高等工業学校を受験したものの不合格。東京での1年間の浪人生活を送り、翌年、仙台高等工業学校に1909年に入学した。

大学時代

仙台高工で3年間、当時の高等工業学校でほぼ標準化されたカリキュラムにて機械工学の知識の習得に取り組んだ。

スケート、マラソン、乗馬、テニス、ボートなどに取り組み、そのなかで特にスケートに熱中した。

社長時代の実績・取り組みなど

GHQによる分割を回避

倉田社長の大きな功績として評価されているのが、GHQによる会社分割を回避したことだ。 1947年12月GHQに呼び出され、分割を告げられる。それ以来、倉田氏は1日または2日おきにGHQに足を運び、交渉した。 当初は「19分割」を提案されるが、粘り粘って「3分割」まで譲歩させた。それでも時間を稼いで分割をかわし続け、最後は白紙に戻すことに成功した。執念の「粘り勝ち」だった。

戦後のリストラと労働争議

戦争が終わると、工場に余剰人員を抱えることとなり、厳しいリストラを決断。1950年5月8日、全従業員の15%にあたる5555人の削減を通告する。 労働組合はただちにストライキで対抗。戦後を代表する大争議として有名になる3カ月の長期ストとなった。

組合の暴力行為

このとき労組がとった戦術は、暴力的で過酷なものだった。

通称 内容
「雨のブルース」 幹部を竹ザオでズボンやシャツをくし刺しにし、大ぜいで回して極限状態に追い込む。汗が雨のように出るため、この名がついた。
「熱砂の誓い」 周りを囲んだ労働者がタバコの火などを押し付け、解雇撤回を迫る。
「だるま落とし」 ドラムカンの上に交渉相手を乗せ、気に入らぬと足でけり落とす。
検察に直訴

一連の暴力行為について、経営側は検察に直訴した。このうち、駒井健一郎氏(次期社長)が工場長を務める日立工場では1950年7月6日、警官が組合アジトを包囲し、家宅侵入や暴行の容疑で多数の組合幹部を逮捕した。 翌日、会社側は組合事務所に出向いて、工場のロックアウトを宣言し、施設を閉鎖。組合の団結は乱れ戦意も喪失し、工場内は急に平穏になった。

会社側の勝利

組合内では穏健派の発言が強くなり、組合幹部の改選が行われ、事実上争議は終了。1950年8月9日の中央交渉で組合側が会社提案を無条件でのんで、すべてが終結した。

電力事業で大攻勢

日本の産業界は1950年(昭和25年)の朝鮮戦争をきっかけに、設備投資が盛んになった。特に電力関係は新しい開発が次々と始められた。 この時代の電力は「水主火従」。佐久間、丸山などの大規模な水力発電所が着工され、火力も鶴見、潮田などの新設備が計画されていた。倉田氏が率いる日立は、これらの発電設備の受注に全力を傾注した。 水力は経験も豊富で、優秀な実験設備も持ち、優位に立っていた。だが、火力に関しては、戦前にドイツAEGから技術導入していたものの経験も少なく、東芝や三菱重工の後塵(こうじん)を拝していた。

東京電力にタービン発電機

それでも営業努力の結果、東京電力の潮田発電所の5万5000キロワットのタービン発電機を受注することができた。

外資と提携

創業者・小平氏の「国産主義」路線もあって、日立はゼネラル・エレクトリック(GE)とかウエスチングハウス(WH)など世界一流企業と提携がなかった。

敗戦によるゼロの状態から再出発し、再び外国企業に追い付くためには、国産主義にこだわり過ぎるのはむしろマイナスになると判断し、戦前は数件しかなかった外国企業との提携を本格的に進めるようになった。

重電のボイラー分野で英バブコックと提携

とくに重電分野では、早急に外国の一流メーカーと技術提携する必要があった。次期社長となる駒井氏が中心となって、相手を物色。ボイラーでは「バブコックウィルコックス」、タービンではGEに狙いを定めた。

このうちバブコックは、米国、英国、西欧の3カ国に独立企業を持ち、ファミリーを形成していた。そのなかで、戦前、英国のバブコックが三井と合弁で日本法人「東洋バブコック」を設立し、ボイラーの生産を行っていた。しかし、戦後は提携相手の三井物産が手を引いていた。

そこで、日立が東洋バブコックの増資分を引き受け、50対50の資本構成とし、会社名を「バブコック日立」と解消することになった。社長は日立から出した。

米RCAとの電子管分野の技術提携

1952年、米RCAと電子管分野の技術提携を結んだ。これを受けて、テレビなどを手掛けるようになる。

家電が稼ぎ頭の一つに

1950年代後半から1980年代前半にかけて、テレビなどの家電が日立の発展を大きく支えた。一時、家電が日立の全売り上げの24%を占めたこともあった。 その利益を元手にして、現在の成長分野である半導体やコンピュータ事業に手を広げていくことになる。

グループ経営

日立躍進の原動力となるグループ会社の「自主独立路線」をスタートさせた。後に「御三家」と呼ばれる子会社3社のうち2社(日立電線と日立金属)は、倉田社長の時代に設立され、上場までこぎつけた。

日立電線

1956年設立。初代会長に倉田社長が自ら就任。1961年10月上場。

日立金属(現プロテリアル)

1956年4月、鉄鋼部門が分離独立。「日立金属工業(後の日立金属)」として独立。1961年上場

経営スタイル

聞き役に徹する「小平式」を踏襲

経営会議で聞き役に徹する「小平式」を踏襲した。他の役員に徹底的にしゃべらせ、自分は沈黙を守る。そして、最後に自ら決断を下した。

社外の活動

科学技術振興財団の設立に尽力

晩年は科学技術の振興に取り組んだ。科学技術振興財団の設立に尽力し、初代会長に。 財界の総意で発足した科学技術振興財団には、日立も創業50周年を記念して10億円を拠出した。

私財を投じて国産技術振興会

会長を退任した時、退職金2億円を投じて「国産技術振興会」を設立。若い技術者の研究を援助した。

日本機械工業連合会会長

日本機械工業連合会会長を長く務めた。

逝去・葬儀

社業が再び上昇気流に乗ってきた1969年12月、卒然として逝去。その前日までは出社していたが、帰宅して夕食後、テレビをみている時に急に倒れ、そのままの大往生だったという。

死亡時の役職

相談役


駒井健一郎

(こまい・けんいちろう)

【期間】
1961年11月~
1971年11月

駒井健一郎

国際化を推進。コンピューターや半導体などの新分野に注力。子会社の「自主独創」を掲げ、グループ経営を拡大。

【生まれ】
1900年12月17日

【死去】
1986年10月2日(享年85歳)

日立工場長や重電部門のリーダーとして申し分ない実績を重ねた逸材。社長就任後は、懐の深い大物経営者ぶりを発揮。キリスト教徒。

社長就任時の年齢

60歳

社長就任前の役職

専務

前任者の処遇

倉田社長は会長に

人事の背景

稼ぎ頭である重電部門のスター幹部への禅譲

内示

1960年秋、創立50周年記念式典の数日前、倉田社長から呼ばれて内示を受ける。恩人の大西定彦氏が副社長だったこともあり、いったんは固辞したという。

出身地

東京・麻布

出身校(最終学歴)

東京大学(工学部・電気工学科)
※1925年卒業

入社年次

1925年

入社理由

就職活動

電力会社の研究所は求人が極めて少なかった。 メーカーの求人も、残っていたのは日立製作所と三菱電機のみ。 担当教授の勧めに加えて、東大YMCA寄宿舎の先輩だった大西定彦氏(後の副社長)がいたため日立へ。

略歴

入社後、日立工場に配属。

変圧器の設計担当

担当は、変圧器の設計係。月給100円という厚遇。

研究係へ

入社3年目(1928年)から研究係に異動し、高電圧の研究を担当。 当時、送電電圧が高くなり、雷の衝撃電圧による絶縁や避雷器の研究が課題だった。 人工雷をつくり、変圧器の強度や避雷器の性能を実験。

軍需部門

変圧器部長を経て、1943年に海軍の電気機器を扱う電艦部長に。 海軍の管理下の山手工場勤務となる。 潜水艦の電動機や艦船の制御装置などを担当。

日立工場の副工場長

日立工場の副工場長となり、山手工場を担当。 1944年、軍需会社法による指定工場になり、陸、海、軍需、通信の4つの省の管理下に入った。

九死に一生をえた

米軍の爆撃を受ける。工場の幹部が退避した本館の地下壕に入り口に爆弾が落ちたが、幸い不発だったので、九死に一生を得た。

戦後、日立工場長に

戦後の1946年6月、日立工場長に。激しい労働争議を現場で経験。

本社の電機事業部長に

1950年10月、日立工場長から、本社の電機事業部長に就任。 大争議も終わり、国内景気も朝鮮動乱による特需などで回復し始めた時期だった。 英バブコックと提携を早期に実現させるなど、重電部門のリーダーとして活躍。1955年に常務、1957年に専務へと昇格。

生い立ち

10人の兄弟姉妹の長男。 (男子4人、女子6人)

父親は電力業界

父、宇一郎は電灯会社(現在の電力会社)の技師。 三井財閥の後援などで1906年(明治39年)に発足した「箱根水力電気」の初代専務(実質的な責任者)。 その後、横浜共同電灯と合併して誕生した「横浜電気会社」常務。明治時代の電力の黎明期に大きくかかわった。 持病の痔が悪化して引退。信仰生活に入った。 1938年脳梗塞で死去。享年73歳。

子供時代

叔父がやっていた小さな工場で旋盤の手伝いをした。 小学校3年生の1909年9月、横浜に転居。 1914年、第二横浜中学校(現在の翠嵐高校)1回生として入学 1919年9月、一高理科甲類に入った。

大学

1922年、東大の工学部の電気工学科に入学。
※父親が電気技師だった影響で電気工学を選ぶ。
※理科の秀才は理学部の物理とか数学などを志望する人が多かったので、入試は比較的やさしかったという。
※東大YMCAの寄宿舎に入居。日曜には教会に通った。

家族

妻・カツヨさん

秋田県・六郷町の酒造業である2代京野孝之助の末娘。 秋田女学校を卒業後、叔父を頼って上京。 東京・牛込のYMCAの寮から家政学院に通っていた。 1956年11月、青山会館で結婚。

社長就任時の抱負

「量」より「質」重視へ

日立は「売上・設備・人員」などの量的面では国際レベルに達したが、「総資産回転率」や「一人当たり生産額」などの質的な面では劣る。質を重視する経営に取り組む。

技術的な緊急課題

  • 最新鋭の火力発電設備の設計
  • 国産コンピューターの成功

社長時代の実績・取り組みなど

初期に投資中止を決断

日本の景気は1962年(昭和37年)ごろから停滞し、1964年(昭和39年)の東京オリンピックで一時持ち直したが、その後はまた不況に突入した。

駒井社長は「この不況は長続きする」と考え、新規の設備投資だけでなく、続行中のものも全て中止する決断を下した。一部に反対があったが強行した。この読みが当たり、同業他社に比べて、不況による業績悪化を小さく食い止めることができた。

工場の独立採算制

「社内資本金制度」と「工場プロフィットセンター制」

工場を完全に独立した組織として運営させる「社内資本金制度」と「工場プロフィットセンター制」を導入。 各工場が製造はもちろん、製品の企画・設計や生産計画から最終的な収益責任まで負う体制を築いた。 つまり、工場の独立採算制である。 工場長は例えば在庫をいかに少なくするかといったマネジメントを実行するようになった。 この制度は日立独自のものであり、成長を支える原動力となった。

研究体制の強化

研究所や開発組織を強化。1960年代後半から1970年までに、「中研材料研究室」「生産技術研究所」「システム研究所」「技術研修所」などを相次いでつくった。

「特研」スタート

「特研(とっけん)」という制度を立ち上げた。正式名は「特別研究開発制度」。優先的に開発したい製品を厳選したうえで、7つの研究所から優秀な技術者を集め、集中的に取り組んだ。 「並列コンピューター」「LSI(大規模集積回路)」などの大型プロジェクトが特研に指定された。

日立の総合力を結集して短期間で成果をあげるシステムとして、長年にわたって有効に機能した。特研は、そのまま「Tokken」という英語のワードになるほど有名になった。米IBMなどにも影響を与えた。

日立半導体の黄金期の胎動

電卓用LSIで先行

1968年10月、「『オールLSI電卓』を1970年中に商品化する」との目標を打ち出す。LSIの数は「10個以内」とした。1969年1月にLSI開発に取り組む「特研」チームを発足。国内半導体業界の先頭を走る体制を整えた。

「工場中心主義」からの脱却

1969年11月、それまで工場に所属していた半導体の設計開発部門を、事業部の所属とする組織変更を断行。 日立の常識である「工場中心主義」を、半導体だけ例外的に「事業部中心主義」へと転換した。 重電部門と異なり、半導体はユーザーが世界の様々な用途に分かれている。このため、重電工場のような受け身の姿勢ではダメで、自分たちで率先して「何をつくるか」を定義する必要があった。

大胆な若手の抜擢

半導体の「製品開発部長」に、若干32歳の牧本次生(まきもと・つぎお)氏を抜擢。「プロセス開発部長」に、33歳の西田澄生氏を抜擢した。

国産初のLSI電卓

1970年5月、「国産初のLSI電卓完成」を発表する。これに先立つ1968年、シャープの依頼で米ノースアメリカン・ロックェル社が電卓用LSIを開発していたが、国産のものはまだなかった。

部品メーカーとして大量受注

電卓用LSIの成功を受け、他の電卓メーカーからLSIを大量受注。 LSI開発の「CADシステム」を構築し、多くのカスタム設計をこなすことを可能とした。 国内外の大半の電卓メーカーを抑えた。具体的には以下の通り。

  • シャープ
  • カシオ「答え一発!カシオミニ」
  • リコー「てんてんP」
  • ソニー
  • オリベッティ

このうちカシオ「答え一発!カシオミニ」は1972年8月に発売され、爆発的なヒットになった。

圧倒的なシェア

1972年下期に日立製LSIのシェアは65%。1973年も50%シェアを確保した。

ガスタービン

1960年代、熱効率に優れた「コンバインド・サイクル方式」の発電設備が米国で登場し始め、ガスタービンの将来性が期待された。 そこで日立は1964年にGEとガスタービンの共同製作協定を結び、GEが受注したガスタービンの製作を担った。 また、この経験をもとに、中容量のガスタービン2種を自社開発。世界各地に納入するようになる。

環境装置

1960年代後半、高度経済成長のひずみとして公害による大気汚染が深刻になってきた。 日立は公害防止機器にいち早く取り組み、1964年に電気炉集塵装置を開発。1967年には東京電力と共同で酸性雨の原因となる硫黄酸化物を除去する排煙脱硫装置のテストプラントを建設し実証実験を成功させた。

国鉄「みどりの窓口」

駒井氏が社長就任前、国鉄(現JR)の常務理事を訪ねたところ、国鉄傘下の「鉄道技研」で研究中の座席予約装置を共同開発しないかとの要請を受けた。この話を社内に持ち帰り、引き受けて完成したのが「みどりの窓口」である。 1960年に国鉄の指導のもと、日立が試行機「MARS(マルス)-1」を製作。東海道新幹線が開業した1964年に「MARS-101」が完成し、翌年「みどりの窓口」が国鉄の主要駅に開設された。

コンピューター事業でふんばった

コンピューター事業は、1980年代には日立の大黒柱となり、1987年度には経常利益1330億円の半分を稼ぐほどに育ったが、1950年代後半から1970年代前半までは、毎期大赤字を垂れ流していた。

駒井社長は、コンピュータの事業部長や工場長に様々な人材を投入して、改善に努めた。東大に超大型計算機を入れたり、技術もIBMに追いつくためRCAと技術提携をしたりした。

その結果、1969年頃から若干の黒字が出るようにはなった。それでも、いつまた赤字に転落するかわからない状態だった。コンピュータでは米IBMが圧倒的に強いため、1970年には米GEが撤退。日立の提携相手だったRCAも翌1971年に撤退。それでも日立は踏ん張り続けた。

ソフト工場

当時のコンピューターはハード重視の時代だったが、駒井社長は「ソフト工場」という独立事業体をつくった。

「物をつくるのではないからソフトセンターを」との社内から提案だったが、駒井氏は「他の工場並みに原価意識をもって独立勘定で仕事をしてもらう」との考えから「ソフト工場」としたという。そのうえで、ソフトウエアでもお金をもらえるよう、の価格体系を早期に整えることを命じた。

日立ソフトウェアエンジニアリング設立

その後ソフト工場は成長し、傘下に多数のソフト会社を抱えるようになった。 1970年には、日立ソフトウェアエンジニアリングが設立された。

グループ独立・拡張路線を強化

前任の倉田社長のグループ独立・拡張路線をさらに推し進めた。子会社の「自主独創」を掲げ、各社がそれぞれ事業を拡大し、株式上場を目指すことを推奨した。

日立化成(現レゾナック)

1962年設立。1970年上場。グループ「御三家」の一角を占めるようになった。

特許の公開

1965年~1970年頃は、原子力、半導体、コンピューター等の新分野の技術が次々に開花した。 海外の先進技術にも追いついてきた。 これを受けて1971年、日立の持つ特許の公開に踏み切った。 外国では特許を相互に交換するクロスライセンスが一般の慣行。 しかし、日本では各企業とも門戸を閉ざしており、特許を逃れるためにむだな努力をしていた。 これではまずいとの考えから、日本では初めての特許公開に踏みきった。 これにより日立の技術輸出は増え、輸入は減った。 その比率は1970年の6%から1978年には59%にもなった。 後に駒井氏は1979年に発明協会から表彰を受けた。

慈善活動

小平記念館に、日立株約20万株を寄贈した。 会長に退いた後、ここを基盤に幼児教育に取り組んだ。

逝去・葬儀

1986年10月2日午前1時10分、リンパ腫のため、小平記念東京日立病院(東京都文京区湯島)で死去。85歳。葬儀の喪主は長男、礎一(そいち)氏が務めた。


吉山博吉

(よしやま・ひろきち)

【期間】
1971年11月~
1981年6月

吉山博吉

重電畑。「軽量経営」で合理化を推進。国産初の原発を納入。半導体ビジネスではブレも。

【生まれ】
1911年12月1日

【死去】
2007年5月2日(享年95歳)

海外展開を積極推進した国際派経営者

社長就任時の年齢

59歳

社長就任前の役職

副社長

前任者の処遇

駒井社長は会長に

他の主な役員人事

日立グループの「御三家」である日立電線の松浦孝義社長、日立金属の中村隆一社長、日立化成の藤久保三四郎社長の3氏も社長を退任し、会長に。グループ全体で経営陣の若返りを図った。

人事の背景

駒井社長が在任10年。そして70歳の古稀を控えバトンタッチ。

選定理由

駒井・前社長は選任理由について「技術もよくわかっている上に、考え方に幅がある。なによりも責任感が強く、誠実な人柄が社内で高い評価と尊敬を得ていた」と語った。

出身地

山口県萩市

出身校(最終学歴)

東京大学(工学部・電気工学科)
※1935年卒業

入社年次

1935年

キャリア

入社以来、重電部門の営業技術面を担当。海外事業部を経験し、エリートコースを歩んだ。胆石を病んでいたのに多忙で十分な治療ができなかったため、重症になり、一時は回復も危ぶまれたが、2度目の手術が成功して回復。

略歴

1935年、入社
1961年、取締役
1964年、常務
1968年、専務
1969年、副社長

社長時代の実績・取り組みなど

「軽量経営」

オイルショックや環境保全運動の高まりなどに見舞われた。 「軽量経営」を打ち出し、工場移転や工場統廃合、工場一時帰休などを断行した。 MI(マネジメント・インプルーブメント)運動を推進。 間接費削減など経営体質の強化を図った。

原発の国産1号

日本の商用原発は当初、輸入炉の導入から始まり、国産化への道を目指していた。 安全な原発設備の自主技術開発に注力してきた日立は1974年、国産1号となる中国電力「島根原発1号機」を納入した。

半導体

大型コンピューター用LSIで成果

大型コンピューター用のLSIの開発を目指して、1975年2月「デバイス開発センタ」(青梅市)を設立。 コンピュータ事業部の傘下。 中央研究所、半導体の武蔵工場、神奈川工場、通信の戸塚工場から人材を結集、 人員150人でスタートした。 「68X」を生み出し、米ユニシスから「スーパー90」用のLSIを受注することに成功した。

厳しい仕打ち

半導体部門が1975年に採算が悪化。赤字に転落すると、半導体4工場のうち2工場(甲府、小諸)を「分工場」へと格下げする。 また、駒井社長時代から半導体については事業部主導型としていたが、これを工場主導型に戻した。 事業部に所属していた開発部門は、工場(武蔵工場)に取り込まれた。この結果、半導体は積極的な投資が難しくなった。 さらに、1975年6月、半導体事業部長に重電部門の人材を充てた。 以上の経営判断は、近視眼的だったと言わざるを得ない。

DRAMで復活

16KビットDRAMで半導体事業が復活を遂げる。

1978年半ばに16KビットDRAMで月産10万個を突破。 翌1979年IBMから16Kビットを二枚重ねにした32Kビットを大量に受注。 同時に64KビットDRAMを特研に指定し、1978年7月開発スタート。 1979年5月開発に成功。

1981年にDRAM世界トップに

後任の三田社長の時代の1981年にDRAM世界トップに躍り出た。64Kビットでは世界シェア40%を突破。

大号令でビデオ開発の出遅れを取り戻す

ビデオ(VTR)の製造技術を確立するために、系列会社を含む日立の多数の関係部門から100名を超す技術者を日立の東海工場に結集させた。吉山社長の大号令による、いわば社運をかけた特大の「特研」だった。これで一気に開発を成し遂げて、ビデオの立ち遅れを取り戻した。

とはいえ、後に汎用品となるビデオデッキに、これほどの経営資源を投入する意義があったかどうかは、疑問が残る。

中国進出

1978年8月、日中平和友好条約が締結。

同年10月、中国機械工業代表団が来日。日立製作所の日立工場を見学する。

団長(周建南氏)が吉山社長(日本国際貿易促進協会の副会長)に対して、合弁工場の設立を要請する。
サプライズの提案だったが、吉山社長は重く受け止め、中国でテレビの製造現地法人を設立した。これが戦後の日本企業にとって中国との合弁の第1号となった。

発電所の公害対策

光化学スモッグの原因となる窒素酸化物を除去する脱硝触媒を開発。1978年に中部電力知多火力発電所5号機に700MW全量処理の排煙脱硝装置を納入した。当時の世界最大級だった。

「この木、何の木~」

「この木、何の木~」の日立グループの企業CMを始めた。

慈善活動

1987年相談役に退いたときに退職金を辞退し、「小平祈念館」と「日立ファウンデーション」に寄贈

逝去・葬儀

2007年5月2日に心不全で東京都文京区の小平記念日立病院で逝去した。 享年95歳だった。 通夜、密葬は遺族の意向で近親者のみで執行された。


三田勝茂

(みた・かつしげ)

【期間】
1981年6月~
1991年6月

三田勝茂

※重電畑のエリート出身。途中でコンピューター部門の再建を託されて成功。社長時代は「工場主導」から「マーケット主導」への転換に取り組んだ。後継者選びでやや失点か。

【生まれ】
1924年4月6日

【死去】
2007年7月28日(享年83歳)

※重電畑のエリート出身。途中でコンピューター部門の再建を託されて成功。社長時代は「工場主導」から「マーケット主導」への転換に取り組んだ。後継者選びでやや失点か。

社長就任時の年齢

56歳

出身地

東京・品川

出身校(最終学歴)

東京大学(第二工学部・電気工学科)
※1949年卒業
※1945年春、旧制・都立高校からに東京大学の第二工学部の航空機体学科に進学する。 当時、東大の航空機関係は人気学科で、秀才ぞろいだった。 しかし、入学から4か月後に敗戦となり、軍事関係の学科は廃止になった。 このため三田氏は翌1946年に試験を受けて電気工学科に入り直した。

入社年次

1949年

入社理由

当初はメーカーでなく商社を志望していた。 在学中に実習体験をしたメーカーが、戦争の打撃で悲惨な状況になっていたからだ。 しかし、主任教授に反対され、第二志望の商工省(現:経済産業省)を受験するも、面接で落とされた。
なんとか教授の紹介で日立製作所の系列の系商社「日製産業」に滑り込んだ。 ところが本人の知らぬところで日製産業から日立製作所へと所属先が切り替えられ、6月に中途入社となった。

キャリア

「国分(こくぶ)工場」に赴任

最初の赴任先は、「国分(こくぶ)工場」(茨城県日立市)。
※発電所や変電所をコントロールする配電盤の設計を担当する。
※家電部門の「多賀工場」(茨城県日立市)と、道路を挟んだ「国分分工場」(茨城県日立市)に分かれていたが、後者に所属。

設計エリート

入社後、20年間を国分工場で過ごした。 この間、日立のエリートコースとされる設計部門の要職を歴任する。

  • 1961年、配電盤設計課長
  • 1967年、計算制御設計副部長
  • 1968年、計算制御設計部長

GEに留学

1958年9月から8か月間、米GEに留学。重電分野の技術研修講座を受けた。
※入社9年目。社内エリートが1人だけ選ばれる制度だった。
※終了後に会社に延長を申し出て、コンピューター・プログラム講座を1か月受けた。
※帰国後、この経験をもとに日立の教育制度の充実を訴えるようになった。

大みか工場の初代の副工場長

1969年、大みか工場の初代の副工場長に。
※新技術だった「プロセス・コンピューター」をつくる先端工場。後に社長になる川村隆氏、中西宏明氏も勤務。 1971年8月、工場長に昇格する。

重電部門からコンピューター部門

重電部門でのマネジメント能力が高く評価され、1971年11月、汎用コンピューター部門の拠点である神奈川工場(神奈川県秦野市)の工場長に配属される。 赤字が続くコンピューター事業の再建を、駒井社長から託されたのだった。

「非常事態宣言」

当時の神奈川工場は3大開発プロジェクト(電電公社向け大型機など)に集中しすぎて、既存顧客への対応がおざなりになっていた。そこで「非常事態宣言」を出し、すべての顧客としっかり向き合える体制へと転換する。

通産省主導の「日本電子計算機(JECC)」と決別

当時の国内コンピューター・メーカーは、通産省主導で設立された「日本電子計算機(JECC)」に製品を買い取ってもらっていた。 本来なら、米IBMのように、コンピューターを顧客に貸し出して毎月レンタル料を徴収する方式が、商売を広げるうえで理想なのだが、それだと開発費の回収に年月がかかりすぎてしまって、経営がもたない。 そこで、日本電子計算機という団体が一括で各メーカーから買い受けて「購入代金」を支払う。そのうで、日本電子計算機が顧客(ユーザー)からレンタル料を毎月徴収する仕組みだった。

独自の検証で駒井会長を説得

しかし、三田氏は独自の検証の結果、この方式だと最終的にメーカーが損をすることを突き止める。 さっそく駒井健一郎会長(当時)に報告し、日本電子計算機を通さない方式を提唱。 自社から直接、顧客に貸し出す方式に転換させた。必要な資金は、テレビ事業の利益を充当してもらったという。 目先の損失は出たが、中期的にはコンピューター事業の収益の改善に大きな効果をもたらした。

コンピュータ事業から社長への道

1975年、神奈川工場長のまま取締役に昇格。
1976年、コンピュータ第一事業部長
※開発会議に営業担当者を入れるなど、マーケット主導型のモデルを主導した。
1977年、常務
1979年、専務
1980年、副社長
1981年、社長

生誕・出生

生家は東京・品川の農家。7人きょうだい(男5人、女2人)の末子。
※子供のころは、まだ周囲が畑で、野菜をつくっていた。が、だんだん宅地化が進んできたため、農業をやめて、土地を貸したり、貸家で生計を立てるようになったそうだ。

社長時代の実績・取り組みなど

マーケティング重視に転換

宣伝や営業も参加

製品開発にマーケットの声を反映させることに力を入れた。「特研」に技術者だけでなく、営業や宣伝の担当者も参加させるようにした。

各事業部にマーケティング本部

市場のニーズをいち早くつかむため、1986年から各事業部にマーケティング本部を設置した。

製品企画を工場から事業部に

1988年から、今まで工場にあった製品企画の部隊を事業部に移管。

大型汎用機で成長

新型の大型汎用(はんよう)機「M-68X」を1985年11月発売。 IBMが1985年2月に発表した新型コンピューターの「3090シリーズ(シエラ)」に対抗。 IBM機とほぼ同等の性能と言われ、コンピュータ部門の成長に寄与した。

金融機関の第3次オンライン・システムの波に乗る

銀行・証券・生保の第3次オンライン・システムの構築の波に乗った。 例えば1988年に他行に先がけて稼働した三和銀行の3次オン・システムでは、包括的な受注に成功。 ホストコンピュータとして「682H」を、東京センターに5台、大阪センターも2台納品た。新営業店プロセッサ300台、新端末機4000台も納めた。

原発で実績を重ねる

1979年の米国スリーマイルアイランド原子力発電所、1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故が発生。世界的には原子力発電所建設が下火になったが、日立は実績を重ねた。 BWRの改良を進め、1984年の東京電力の福島第二発電所2号機を手始めに、9基の「改良型BWR」を納入。 その後も、システムの単純化、安全性の向上、被ばく改良等を図った「ABWR」の開発を東芝・GEと共同で進めた。

可変速揚水発電システム

1980年代、電力系統の経済的運用を目的とし、世界に先駆けて関西電力と「可変速揚水発電システム」の開発に着手。

1993年には世界最大容量の可変速揚水発電システムを、関西電力大河内発電所に納入。このシステムの導入により、系統周波数調整のための火力発電所の稼働率を低減することにも寄与した。

半導体

1984年が半導体の絶頂期

プレナス投資顧問によると、1984年、日立の半導体ビジネスが絶頂期を迎えた。 DRAMを中心とするメモリ市場で世界を席巻。 社内で最大の利益を稼いだ。

1985年市況悪化

しかし、1985年に半導体不況が到来。 メモリーが値崩れし、同時に日米半導体摩擦も勃発。 衰退期へと向かっていくことになる。

マイコン開発
  • 米モトローラとCMOSマイコンで提携
  • 1986年にマイコンが好調に。ZTATがヒット。
  • 1986年10月、マイコン独自路線を決定。新製品は日立オリジナルとする。
  • モトローラから提携打ち切りを通告される
    1986年12月末、米モトローラから提携打ち切りを通告される。
独自マイコン発売

・1988年6月、日立独自アーキテクチャーのマイコン「H8」発表

モトローラ訴訟
  • 1989年1月18日、米モトローラが「H8」をめぐり特許侵害で米国で提訴
    ==>1週間後、日立が逆提訴。「モトローラの32ビットマイコン(6803)が日立の特許を侵害」
  • 1989年2月、半導体設計開発センター設置。工場の組織内にあった設計部門を集約
  • 1990年3月29日、判決。「両社とも特許侵害。販売差し止め」。ただし、6月まで猶予
  • 1990年10月10日、和解交渉で最終合意
SHマイコンの開発
  • 新型RISCアーキテクチャー
  • 32ビット
    ==>1992年11月、第一弾「SH-1」を発表
    ==>セガのゲーム機などに使われる

家電

「静御前(しずかごぜん)」の成功

洗濯機「静御前(しずかごぜん)」が大成功。 洗いからすすぎ、脱水までをすべて自動的に行う「全自洗」。 1987年3月の発売以来、1年半で50万台を売る大ヒット商品になった。 最大の要因は、名前のように『音が静か』なことだ。 1985年に「特研」に指定。日立研究所、機械研究所、デザイン研究所、それに使い勝手のテストを行う商品テストセンタなどの支援で開発を進めた。

個人向けパソコン

1987年5月、個人向けパソコンに社長枠の予算を投入し、派手にテレビ宣伝を打った。 人気アイドルだった後藤久美子を起用。「日立のパソコン、ゴクミのパソコン」とのフレーズで人気を集めた。 しかし、最終的にはNECの98シリーズに完敗を喫した。

「工場独立採算制」の見直し

日立は1960年代から、各工場が独立会社のように収益を管理する「工場プロフィットセンター制」を採用していたが、三田社長はこの見直しに着手した。 1980年代末、家電、コンピュータ、半導体事業などで、各事業部を収益管理の単位とする「事業部プロフィットセンター制」に転換。経営の意思決定権を工場から奪取した。

社長時代の不祥事

IBM産業スパイ事件

家電の相次ぐ欠陥

1986年、冷蔵庫、洗濯機が相次いで煙や火を吹き、電子レンジにも重大な欠陥が発覚。

社外活動

1992年に経団連副会長に就任

死去

2007年(平成19年)7月28日脳梗塞のため、東京都文京区の病院で死去、83歳。


金井務

(かない・つとむ)

【期間】
1991年6月27日~
1999年3月末

金井務

変革パワーが足りず、多くの事業で競争力を喪失。巨額赤字を出して退任。

【生まれ】
1929年2月26日

【死去】
2013年3月19日(享年84歳)

重電畑のエリート。原発の専門家。厳しい不況下での社長就任。日本経済の失速とともに沈みゆく日立を救えなかった。リーダーとしての人間的な包容力も足りなかったか。

社長就任時の年齢

62歳

社長就任前の役職

副社長
※海外担当を2年

人事の背景

三田氏が社長に就任して以来、満10年が経過。重電エリートに道を譲った。

出身校(最終学歴)

東京大学工学部大学院(熱流体力学専攻)
※1958年3月修了

入社理由

研究志向

東大工学部を卒業後も大学院に残り「熱流体力学」などの研究を続けた。 が、日本も昭和30年代に入り原子力の研究が本格化。 大学での研究より民間企業での研究の方が研究費用などの面でも有利と判断。日立入りを決意。

キャリア

重電畑出身。

中央研究所、日立工場を歩んだ重電エリート。

研究者として

最初に中央研究所に配属された。 中研の三本柱「半導体」「原子力」「コンピューター」のうち原子力の研究に10年間従事。 「原子炉の熱流体」をテーマとした。

中国電力「島根原発」建設のリーダー

原発事業をその黎明(れいめい)期から見てきた。 1974年完成の日本初の国産原発「島根一号」では責任者として指揮をとった。

平取締役を飛び越して常務に

経営力を試される重責の日立工場長を務めあげた実績を買われ、ヒラ取締役を飛び越して常務に昇進。

略歴

  • 1958年(昭和33年)5月、入社
  • 1985年(昭和60年)6月、常務
  • 1987年(昭和62年)6月、専務
  • 1989年(平成元年)6月、副社長
  • 1991年(平成3年)6月、社長
  • 1999年(平成11年)4月、会長
  • 2005年(平成17年)6月、相談役

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

三田前社長の人物評は「指導力があり公平」。

少年時代

若くして厳父を亡くした。学生時代は家庭教師で生計をたてる苦学生だった。

社長就任時の抱負

「重電日立の硬いイメージは悪いことではないが、大会社だから急激な変身は難しい。これまでの路線を踏襲していく」

社長時代の実績・取り組みなど

重電以外で「工場独立採算制」を廃止

1992年8月、各工場に大きな権限を持たせる「工場独立採算制」を重電部門を除く各部門で廃止した。代わって「事業部主導体制」に変えた。

事業部が市場調査などを行ったうえで研究開発、商品開発に着手する方式とした。工場はそれに沿ってものをつくる。「工場は物を生産することが第一義なため、どうしてもどう効率的にものをつくるか、ということに重点が置かれる。いま市場は何を求めているか、市場ニーズにどう合わせていくか、という点に欠ける」という考えからだった。

一方、重電は従来通り。電力会社などがユーザーであるため、マーケットを調べる必要がない。工場が直接、顧客と技術的な相談をしながら開発していくのが賢明。

重点研究「Sプロ」制度

1992年、従来の「特研」にかわり、「戦略事業化プロジェクト(略称:Sプロ)」制度を導入した。 研究サイドでなく、事業部のトップがテーマを決める。営業、経理、宣伝もプロジェクトに参加する。 営業は、開発する製品のスペックと価格を前提に、販売数量を公約する。 責任体制を明確にした。 一方、従来の特研は基礎研究を中心に存続させた。

1995年2月からグループ制

1995年2月からグループ制を導入した。以下の4つのグループである。

  • 発電設備、鉄道など「電力・電機」
  • 家電やAVなどの「家電・情報メディア」
  • 大型コンピューターなどの「情報」
  • 半導体などなどの「電子部品」。
「研究開発」と「営業」を各グループ所属に

収益の管理はこれまでも各事業部ごとに行っていたが、研究開発部門と営業部門については、各事業部からの独立性が強かった。グループ制の導入に伴い、研究開発と営業の両部門を、各グループに振り分けた。

自己完結型

4300人が働く研究開発部門では、その3分の2をグループに移管した。研究開発部門は社長直属だった日立にとって、創業以来初めてのことだった。各グループで開発から製造、販売まで自己完結型の経営体制を整えた。

家電の販売会社を吸収合併

1995年4月、家電部門の販売子会社である「日立家電」を吸収合併した。本体と一体化することで、コンピューターなど他の部門との連携で新製品を生み出しやすいと考えたという。

東芝に抜かれる

1997年3月期決算で、経常利益で東芝に抜かれた。戦後初めてだった。

リストラ

製造部門を別会社化

1998年7月、家庭用エアコンと冷蔵庫を扱う「冷熱事業部」の製造部門を別会社化。 1300人が新会社の「日立栃木テクノロジー」に転籍・出向した。 給与体系の引き下げを通じた製造コスト圧縮が主な狙い。

ビデオ工場を閉鎖

茨城県のビデオ(VTR)工場は1994年、生産をマレーシア工場に移管。従業員約2000人を対象に初めて雇用調整助成金を労働省に申請した。
1996年夏、群馬県にある高崎工場の生産ラインを停止。

半導体

カーナビゲーションなどに内蔵される演算素子(マイクロ・プロセッサー)「SHマイコン」が好調だったが、メモリー事業が悪化した。

検索エンジンを製品化

ソフト「ビブリオテカ」

1992年5月、コンピューター用の検索エンジン「ビブリオテカ(Bibliotheca TextSearch)」を発売した。 日本語の文書(テキスト)の全文が検索できるソフト。 日立製のUNIX系ワークステーション「3050」シリーズに、ソフトを組み込むことで使えるようになる。

独自の「階層型プリサーチ方式」で高速化

それまで全文検索の実用化を妨げていた膨大な処理時間を低減するため、検索語に関連のない文書をふるい落とし、高速での検索を可能にする「階層型プリサーチ方式」を採用した。当時、他の電機メーカーは、検索システムに「ニューロ技術」を採用していたが。日立は独自路線を選んだ。

同義語の自動生成

さらに、検索語と文書中の言葉に表現の食い違いがある場合の検索漏れを防ぐ「同義語・異表記自動生成」の検索方式を取り入れた。 従来の検索システムは、シソーラス(統制語辞書)に含まれる言葉でしか検索できないなどの統制語(辞書シソーラス)に含まれる言葉でしか検索できないという問題があった。

サーバー用ソフト150万円

料金(発売時点の定価)は、端末(パソコン)用ソフト「テキストサーチ・クライアント」が50万円。サーバー用ソフトが150万円だった。

改良版でNEC製パソコンにも対応

翌年の1993年4月には、NEC製パソコン「PC-9801」シリーズにも対応した改良版ビブリオテカを発売した。 新聞1年分の情報を持つデータベースから必要な情報を引き出すのに3秒程度の高速検索を可能にした。

スキャナーで読み込んだ文章も

また、ワープロなどの電子化文書だけでなく、印刷物をスキャナーで読み込んだ文章もデータベースに登録できるようにした。

新聞記事10年分を1秒で検索

さらに1995年3月、ビブリオテカに改良を加え、新聞記事10年分に相当する100万件の文書を任意のキーワードによって約1秒で検索できるようにした。 検索対象となる文書の数を、従来の10万件から、業界最大の100万件に増やした。

「日立国際ビジネス」がネット検索サービス

1996年7月、日立グループ内で貿易事務を担当する子会社「日立国際ビジネス」が、「ビブリオテカ」とインターネット検索を統合させたサービスを開始した。

米社製「アイ・スパイ」でWEBデータを収集

このサービスではまず、米インターピックスソフトウエア社(カリフォルニア州)が開発したソフト「アイ・スパイ」で、インターネット上のWEBサイトのデータを収集する。 「アイ・スパイ」は当時、データ収集速度・機能では世界最高と評価されていた。 そのうえで、ビブリオテカで収集した文書の検索を実行した。

危機の到来

業績が過去最悪レベルに

1999年3月期に3300億円以上の連結赤字に転落。前年度の1998年3月期も純利益わずか35億円だった。

半導体&家電の赤字

業績悪化の最大の原因は、半導体の主力だったDRAM事業の赤字拡大とエアコンなど家電事業の赤字転落。

重電の利幅縮小

安定した収益源だった重電事業で利益が縮小。従来、日本の電力各社は投資負担を電力価格に転嫁すれば事足りる無競争状態に置かれていたが、IPP(独立系電力事業者)の台頭などにより、薄利に。電力向け重電事業の売上高は、1990年代初頭のピーク時に比べ約三割縮小した。

不祥事

下水道談合事件、原子力発電所のデータ改ざん、総会屋事件など不祥事が相次いだ。巨大組織にありがちな中央集権的な体質も指摘された。

宗教

クリスチャンだった母親の影響を受けた。妻とも母校・東大近くの教会で知り合った。宗教というのは相手の気持ちがよく分かるようになるし、物事に対する考え方も広くなる。また、専門ジャンル以外の人たちとも付き合える。と言っていた。

性格・人柄

敬虔(けん)なクリスチャン。読みの深さに定評があった。
性格の自己分析は「穏やかだが負けず嫌い」。

趣味(社長就任時)

若いころは給料の大半を車につぎ込んだ。愛車は赤いスカイライン。「スリルを乗り超えて行くのが(車運転の)魅力」。

推理小説

裏の、さらに裏の仕掛けがある推理小説を読むのが好き。

ゴルフ

1985年からスコアをパソコンに入力、平均アベレージは94強とか。

社外活動

  • 1999年6月、日本原燃監査役
  • 1999年6月、日本原子力発電取締役
  • 2004年、日本機械工業連合会会長

死去

2013年3月19日、クモ膜下出血のため死去。享年84歳。


庄山悦彦

(しょうやま・えつひこ)

【期間】
1999年4月1日~
2006年4月

庄山悦彦

ネアカな性格とフットワークの軽さが持ち味。改革を推進。グループ再編にも着手。しかし、果断さが足りず。

【生まれ】
1936年3月9日

【死去】
2020年6月5日(享年84歳)

数々の経営改革を実行したが、沈没を食い止めるのがやっとだった。IBMのハードディスク事業の買収で失敗。後任社長選びもミスった。2006年3月期の連結決算では、中計の目標として掲げていた営業利益4000億円が達成できず、2400億円にとどまった。

社長就任時の年齢

63歳

社長就任前の役職

副社長

他の主な役員人事

金井務社長は代表権のある会長に
副会長ポストを新設し、桑原洋副社長が代表権のある副会長に昇格。
三田勝茂会長は取締役相談役に

社長人事の発表日

1998年12月24日の取締役会

人事の背景

3300億円を超える赤字で金井社長が退任。後継候補は「剛の桑原洋、柔の庄山」の2人に絞られていたが、本流を歩んだ桑原氏ではなく、家電事業の赤字解消で実績を出した傍流の庄山氏が選ばれた。

出身地

新潟県上越市(当時:高田市)

出身校(最終学歴)

東京工業大(理工学部)
※1959年卒業

入社年次

1959年4月

キャリア

入社後、日立工場配属
重電部門出身。金井氏が日立工場長を務めた際の副工場長だった。
1987年に冷蔵庫やエアコンをつくる栃木工場長に転じた。それ以来、主に家電畑。 社長就任時は「重電でも家電出身でもない『無所属』です」と語っていた。

略歴

1959年、東京工業大学理工学部電気工学科卒業
1959年、日立製作所入社
1985年、国分工場長
1987年、栃木工場長
1990年、リビング機器事業部長
1991年、取締役 AV機器事業部長
1993年、常務取締役 家電事業本部長
1995年、専務取締役 家電・情報メディア事業本部長
1997年6月、代表取締役取締役副社長
1999年、代表取締役取締役社長
2003年、取締役代表執行役執行役社長

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

重電にはないスピードが求められる家電畑で、「決断の速さ」の大切さを学んだ。

家電の販売会社の吸収や欧州オーディオ事業からの撤退を実行。赤字が常態化していた家電事業を一時的に立て直した。1997年6月、副社長に昇格。社長候補の一人と目されていた。 社内からは「ドラスチックなことを急速に進めたが、それでも部下はついてきた。その人望はさすがだ」との声も。金井社長も「うちのような大きな組織を束ねるには、人柄や性格が大切」と太鼓判を押した。

社長時代の実績・取り組みなど

自ら広報・IR

就任当初から記者会見、インタビュー、アナリスト・ミーティングなどを積極的にこなした。テレビや新聞・雑誌の企業広告にも自ら登場し語りかけた。対外的な情報発信にこれほど積極的な日立のトップはこれまでいなかったとして、高く評価された。

社風を明るく

暗くなっていた社風を明るくすることに取り組んだ。「みんなの意見を聞く」と低姿勢だった。 子会社や各部門の「社内官僚」が既得権益を擁護する「族議員」のように振る舞う傾向があったが、それらを改革方向に向けようとした。

経営体制を刷新

経営体制を刷新。取締役数を30人から14人に削減、株主や顧客の視点を経営に反映させるために「経営諮問委員会」も設置した。

半導体再編

従来の自前主義を修正し、ライバル企業との提携を次々に打ち出した。とくに半導体については丸ごと手放した。

DRAMをNECと統合

NECとのDRAM事業の統合。「エルピーダメモリ(当初の社名:NEC日立メモリ)」を設立して移管した。 米専業、韓国などに勝つためだった。しかし、後に倒産した。

DRAM以外は三菱電機と統合

DRAM以外の半導体事業については、三菱電機と統合した。2003年4月に共同出資で新会社「ルネサス・テクノロジ」(現ルネサスエレクトロニクス)を設立し、移管した。後に「NECエレクトロニクス」と合併。 設立初年度(2003年度)の売上高9000億円以上を計画。内訳は以下の通り。

製品 売上高比率
マイコン、液晶表示装置(LCD)ドライバー、システムLSIなど 50%
ディスクリートやミックスドシグナル製品 30%
フラッシュメモリーを中心としたメモリー 20%

グループ再編に着手

グループ再編に着手した。

国際電気、日立電子、八木アンテナの合併

国際電気、日立電子、八木アンテナの上場通信関連三社を合併し、日立国際電気にまとめた。

金融

日立クレジットと日立リースを合併させ日立キャピタルとした。その後、日立キャピタルは高い商品開発力と経営力で成長を遂げた。後に三菱UFJリースと合併し、三菱HCキャピタルに。

投資顧問会社

年金改革の一環

日立本体の厚生年金基金など企業年金は、現役社員とOBの約10万人が加入していた。 設立時点で1兆円の資金。これに加えて、500社余りのグループ会社の企業年金も約9000億円あった。 合計1兆9000億円だった。

1999年8月、日本企業で初めて自社向けの投資顧問会社を設立。 日立製作所の子会社だ。 専ら日立グループの企業年金を運用・管理する会社だ。 年金資産の運用や年金管理のコンサルティング業務を手掛けた。 このような年金の運用子会社をつくるのは、日本国内で初めてだった。 投資顧問業の登録を行った。「投資一任業」「投資信託委託業」の認可が得た。 ゼネラル・エレクトリック(GE)など米大手企業が導入しているインハウス型の投資顧問会社をモデルとした。

IBMハードディスク部門買収で失敗

2002年、米IBMのHDD部門を20億5000万ドルで買収。日立の米国のHDD販売部門と統合したうえで、2003年1月に「日立グローバルストレージテクノロジーズ(日立GST)」として発足。 IBMから研究開発、設計、製造などの技術者ら約1500人が合流。博士号を持つ者は370人を超えた。 IBMのHDD部門は1998年をピークに赤字が続いていた。2002年12月期に3億ドル以上の赤字。不振を極めていた。

2003年4月には、日立のHDD製造部門も吸収。欧州、アジアの関連拠点もすべて統合し、世界トップレベルのHDD専業会社となった。従業員は約2万3000人(2004年時点)に膨れ上がった。 しかし、買収後5年連続の赤字。累計1213億円の損失を垂れ流した。買収額を含めると3000億円強も費やした。

外資と相次ぐ提携

原子力事業統合

米国GEと原子力事業を統合。2007年に「日立GEニュークリア・エナジー」を設立。 世界市場での原子力発電設備受注の準備を着々と進めた。

台湾のUMC社と合弁

台湾のUMC社とは合弁で半導体の製造会社「トレセンティテクノロジーズ」を設立。

汎用コンピュータでIBMと提携

大型汎用コンピュータで、これまで熾烈な競争を繰り広げてきたIBMと戦略的な包括提携に合意。中央演算処理装置(CPU)の独自開発路線を放棄し、共同開発に切り替える決断を下した。

マイクロソフトと合弁会社

マイクロソフトと企業向けソリューションの開発・提供で包括提携。合弁会社ネクスタイドを設立した。

光通信部品では米クラリティと

光通信部品を戦略分野の一つに掲げ、米クラリティ・グループと合弁会社「オプネクスト」を立ち上げた。

自動車事業の強化

自動車部品事業の強化に取り組んだ。

日産系の「ユニシアジェックス」を買収

2002年4月、日産自動車系の自動車部品会社「ユニシアジェックス」の買収を発表。100%子会社とした。買収の担当は、川村隆副社長(後の社長)。

「トキコ」も吸収合併

2004年10月には、グループ会社で自動車部品大手「トキコ」を吸収合併。「ユニシアジェックス」から社名変更した「日立ユニシアオートモティブ」も同時に吸収合併した。 日立はモーターやインバーターに強い。トキコはブレーキやサスペンションなど走行制御部品、日立ユニシアは油圧・電子技術によるエンジン系システム制御がそれぞれ得意。 3社の強みを統合することによって、モーターとエンジンを併用するハイブリッド自動車向けに、主要の制御機構を一括して供給できる体制が構築できる、と考えた。

「グループ役員持株会」など導入

2000年4月にストックオプション制の導入を決めた。対象は取締役と執行役員、理事・フェロー(技術者の最高職)にあたる経営層計71人。同時に、グループ企業150社の役員を対象とする「グループ役員持株会」と、本体の社員持株会の奨励金に、業績連動型の加算金制度を導入。連結利益や株価への意識を高めるのが目的だった。

日本コロムビアを売却

赤字続きの日本コロムビアを、米投資ファンドのリップルウッドに売り払った。 (参考:アテル投資顧問

挫折・失政

中計の目標を達成できず

2006年3月期に連結営業利益が、中計目標の4000億円を大幅に下回る2400億円にとどまった。目標は4000億円だった。

ディスプレー、薄型テレビで赤字

ハードディスクドライブ(HDD)、液晶ディスプレー、薄型テレビの3事業が足を引っ張った。不振3事業のセグメント営業赤字は、2006年3月期に合計1000億円規模になった。

後任選びで失敗

後任に古川一夫氏を選んだのは判断ミスだったと言わざるを得ないだろう。

風情

白髪の温厚な紳士といった風情。銀髪と穏やかな話し方で、ソフトな印象を与えた。

死去

2020年6月5日。享年84歳。


古川一夫

(ふるかわ・かずお)

【期間】
2006年4月1日~
2009年4月

古川一夫

在任期間3年は日立としては最短。3年間はすべて純損益が赤字。最終年度は7000億円の巨額赤字。

【生まれ】
1946年11月3日

経営再建を期待されたが、実行できず。自ら手掛けたHDD事業で巨額赤字を出した。決断力が足りなかった。

社長就任時の年齢

59歳

社長就任前の役職

専務(情報・通信グループ長)

前任者の新ポスト

庄山悦彦社長(69歳)は空席だった会長に。日立グループ全体の事業方針や調整役を担当。

人事の背景

業績が低迷するなか、10歳若い古川氏に交代して、構造改革路線を加速することにした。
庄山社長は「事業の一貫性を維持するうえでもできるだけ長く社長をやってもらいたい、ということ。私は丸7年だったが古川次期社長には10年でも20年でもやってもらいたい」と語った。 古川氏と並んで、中西宏明専務(北米総代表)が次期社長に有望視されていたが、庄山氏は古川氏を選んだ。

キャリア

入社以来、情報通信畑を歩んだ。

略歴

1971年日立製作所入社
1969年(昭和44年)5月、東京大学工学部(電子工学) 卒業
1971年(昭和46年)3月、東京大学大学院(電気)修士課程修了
1971年(昭和46年)4月、株式会社日立製作所 入社
1994年(平成6年)、Hitachi Telecom(USA), Inc CTO
1997年(平成9年)2月、日立製作所 情報通信事業部 公衆通信本部長
2003年(平成15年)4月、日立製作所 情報・通信グループ長&CEO
2006年(平成18年)4月、日立製作所 代表執行役 執行役社長
2007年(平成19年)、日本経済団体連合会副会長
2009年(平成21年)4月、日立製作所 取締役 兼 代表執行役 執行役副会長
2009年(平成21年)6月、日立製作所 特別顧問。
2011年(平成23年)4月、一般社団法人情報処理学会会長
2011年(平成23年)10月、独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構理事長
2015年(平成27年)10月、国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構理事長(再任)
2019年(令和元年)6月、日本碍子株式会社社外取締役
2020年(令和2年)8月、株式会社パソナグループ社外取締役(監査等委員)

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

ハードディスク買収失敗の戦犯

古川氏はコンピューター事業担当の専務だった。庄山政権はIT事業のなかでも、とくにデータ記憶装置(ストレージ)とハードディスク装置(HDD)に注力したが、それを率いたのが古川氏だった。赤字の垂れ流しになった米IBMのHDD事業の買収の責任者でもあった。

社長時代の実績・取り組みなど

着任早々、原発事故

社長就任直後に原発事故が起き、対応に追われた。2006年6月に中部電力「浜岡原発」で、2006年7月に北陸電力「志賀(しか)原発」で、日立製タービンの損傷事故が発生。

クラリオンを完全子会社化

2006年10月、クラリオンをTOBで買収し子会社化へ。自動車の車載製品の成長を期待した。

テレビ事業

テレビ事業の収益改善に取り組んだ。プラズマパネルの前工程をパナソニックからの調達に切り替え固定費を圧縮。欧米では量販店での販売から撤退し、高級専門店に特化するなど販路を絞り込んだ。
2008年4月1日付で「法人営業本部」を発足、ホテルの客室や企業のテレビ会議システム向けなど企業への売り込みを強化した。

プラズマやデジタル家電

富士通との合弁だったプラズマ・ディスプレー・パネル(PDP)の生産会社の持ち分を買い取り、傘下に収めた。一時、国内市場で攻勢に出る場面もあったが、すぐに失速。赤字に陥り、売却する方向となった。 DVDなどデジタル家電が伸びると考え、「Wooo(ウー)」ブランドのAV機器を売り出したが、鳴かず飛ばず。

決断できず

HDDや家電部門を売却する検討をしたが、自分を引き立ててくれた庄山さんが買収したHDDや庄山さんが手がけた家電から撤退できなかった。900社あるグループ会社を700社に減らす目標を掲げたが、これもスピードが鈍かった。

自動車部品もダメ

庄山時代も含めて打ち出された新機軸の多くが、失敗に終わった。自動車事業で2010年度に連結売上高1兆円、営業利益率7%を設定していた。2009年3月期は売上げは約7000億円、営業損益は赤字だった。

3年連続の赤字

3年連続の赤字を生み出した。 安定的な利益を稼いできた重電部門さえ、2008年3月期まで5期連続の赤字だった。 大西康之氏の著書によれば「心神耗弱によって社長業に耐えられなくなっていた」という。

座右の銘、モットー

一期一会

趣味(社長就任時)

読書と音楽鑑賞。


川村隆

(かわむら・たかし)

【期間】
2009年4月1日
2010年3月
※最初の1年は社長と会長を兼務。
川村隆

子会社に転出していたが、復帰。前社長の7歳年上。入社年次は9年先輩。上場子会社5社の完全子会社化などグループ再編を一気に断行した。

【生まれ】
1939年12月19日

「東大工学部、重電畑、日立工場長経験者」という保守本流キャリアながら、予想以上の改革派になった。「脱総合電機」を掲げてグループ再編に着手。鮮やかに舵を切った。スピーディなバトンタッチも見事。

社長就任時の年齢

69歳

社長就任前の役職

子会社「日立マクセル」会長

他の主な役員人事

庄山会長は4月1日付で取締役会議長に退く。 古川一夫社長は副会長に。
※業績悪化の責任をとってわずか3年で社長職を退任

社長就任の経緯

就任要請

2009年3月、庄山悦彦会長から電話で「指名委員会が(川村氏を)社長に指名したいとの意向」と伝えられる。
※1月30日に7000億円の赤字見通しを発表。株が暴落していた。

受託の条件は「会長と兼務」

受託の際に「会長と兼務」を依頼する。 「意思決定する人数を絞るためだった」という。 OBや子会社役員らの反対勢力を排除するという目的もあっただろう。 自分1人のほうが、反対を押し戻しやすい。

人事の背景

グループ会社から異例の帰還

川村氏は「東大卒、重電畑出身、日立工場長経験者」というエリートコースを歩み、保守本流のプリンスだった。 しかし、2003年3月まで副社長を務めた後に、子会社に転出。日立プラントテクノロジーなどへ。通常は片道切符。 社長として呼び戻されたとき、子会社の日立マクセルの会長を務めていた。 通常は若返りを図るのに、前任の古川氏より7歳も年長。

副社長3人も子会社からの復帰

副社長も子会社から復帰した。

名前 役職 年齢
八丁地隆 日立総合計画研究所社長 62歳
三好崇司 日立システムアンドサービス社長 61歳
中西宏明 日立グローバルストレージテクノロジーズ会長 63歳

庄山氏の名言「昔のチームに戻す」

庄山氏は記者会見で「昔のチームに戻す」と説明した。

出身地

北海道函館市出身
※函館生まれの札幌育ち。

出身校(最終学歴)

東京大学(工学部電気工学科)
※1962年卒業

入社年次

1962年

キャリア

日立の中核事業の重電部門を歩んだ保守本流。 駆け出し時代に火力発電所の設計に取り組み、 火力技術本部長や日立工場長、電力事業本部長などを歴任した

日立工場長(1992年)

日立工場長として、工場の経営改革に着手。 コスト軽減、組織の見直しによる業務の簡素化、従業員の意識改革などに取り組んだ。 「Hi-TOP21計画」と名付けた。

副社長

1999年、庄山社長就任と同時に副社長に。 日立ソフトウェアエンジニアリング会長などを経て、 05年6月から日立プラント建設(現日立プラントテクノロジー)会長。

略歴

電力事業部火力技術本部長

1992年、日立工場長(3年務めた)

1995年6月、取締役(電力統括営業本部長)

1997年、常務(電力事業本部長)

1999年、副社長(庄山社長就任と同時に副社長に)

2003年以降は日立グループ会社の会長等を歴任

2014年、取締役会長を退任

2004~2005年電気学会会長

2010~2014年日本経済団体連合会副会長

2014~2019年みずほフィナンシャルグループ社外取締役

2015年~2017年カルビー社外取締役

2016年~2017年ニトリホールディングス社外取締役

2017~2020年東京電力ホールディングス会長(社外取締役)

少年時代

高校(札幌西)時代まで北海道で過ごした。 「寒冷地の厳しい気候風土が、我慢強い気質をはぐくんでくれた」という。

人柄・性格

穏やかながら信念を感じさせる語り口が特徴。「実直な人柄」と評されてきた。

家族

息子2人。 東京都内で夫人と二人暮らし。

父親

北海道大学の教授

社長時代の実績・取り組み・成果

状況

財務が危険水域に

2009年3月末の自己資本は1兆500億円と前期末の半分以下に激減。自己資本比率は11・2%にまで低下。危険水域に突入していた。 将来を睨んだ研究開発・設備投資や経済環境の変動による収益のブレを吸収する余力を考えると、20~30%の自己資本比率は必要だった。 かつてトヨタと並んで「日立銀行」と言われた強力な財務は見る影もなかった。

「6人組」で100日以内に改革内容を決める

迅速な意思決定をするために、経営会議のメンバーを13人から6人に絞った。その他の幹部による定例会を全て廃止した。スピードを重視するためだ。 6人とは、川村氏と副社長5人(中西、森、八丁地、三好、高橋)。 就任100日目の7月1日までの改革案づくりを目指した。

コンピューター系の上場子会社5社の完全子会社化

2009年7月、コンピューター系の上場子会社5社の完全子会社化を発表。本体に吸収した 子会社の役員は吸収に抵抗したが、説き伏せた。 「成長分野」として本体に取り込むためだった。 「社会イノベーション事業」と高い相乗効果が期待できる分野を一体化することになった。

日立マクセル 電池事業
日立情報システムズ
日立ソフトウェアエンジニアリング
日立システムアンドサービス
日立プラントテクノロジー 発電・水事業など
資金は公募増資で調達

2009年8月20日からTOBを実施。株の買収額は計2900億円。 資金は公募増資で調達した。評判が悪かったが、説得して回った。

携帯電話からの段階的な撤退

2009年9月14日、携帯電話からの段階的な撤退を打ち出した。 すでに2004年にカシオとの合弁会社(日立49%、カシオ51%)へ開発・設計を移管していたが、 この合弁会社を、2010年4月にNECの携帯部門と統合。 新たな新会社へ移管し、2010年6月までに日立9%まで引き下げる。

プラズマ撤退

2009年、宮崎県のプラズマディスプレーパネル工場を、昭和シェル石油の子会社の太陽電池パネルメーカー「昭和シェルソーラー」に売却。

中西氏を社長

副社長の中西氏を社長に引き上げ、自らは会長専従に。「今後は攻めに転じる。その際、兼務では機会損失が出る」という理由だった。とくに攻めに関しては中西社長に担わせた。

取締役の過半を社外に

取締役の過半を社外にした。

2009年10月、社内カンパニー制を導入

2009年10月、社内カンパニー制を導入。6つのカンパニーを設け、上場子会社と同列にした。カンパニーのトップには、投資家やアナリストへの説明も行わせた。

6つのカンパニー
  • 電力グループ
  • 電機グループ
  • 都市開発システムグループ
  • 情報制御システム事業部
  • 情報・通信グループ
  • ディフェンスシステム事業部

業績を回復

2012年3月期最高益を計上した。

趣味(社長就任時)

趣味はスキー。「ゴーグルをしていても涙が出るほどのスピード感が魅力」という。

動画

<講演の冒頭▼>

中西宏明

(なかにし・ひろあき)

【期間】
2010年4月1日
2014年3月

中西宏明

桁外れの有能経営者。豪快なキャラで親しまれつつ大胆な改革を断行。事業の「選択と集中」を進めた。経団連会長にも就任し、日本経済全体のリーダーとして期待されていたが死去。

【生まれ】
1946年3月14日

【死去】
2021年6月27日(享年75歳)

社長就任時の年齢

64歳

内示

2009年12月28日に川村氏から内示。年明け4日に「引き受ける」と回答。

出身地

横浜市

出身校(最終学歴)

米スタンフォード大院修了

入社年次

1970年

キャリア

大みか工場に25年

最初の配属先は「大みか工場」(茨城県日立市)。希望通り。
※1969年にできたばかりの新しい工場。重電部門のコンピューターを開発・製造。近隣の「日立工場」と「国分(こくぶん)工場」(いずれも茨城県日立市)

コンピューターの設計・開発者

配属部署は「計算制御設計部」。 コンピューターの設計・開発者としてキャリアをスタートした。 それ以来、大みか工場に25年間勤めた。 序盤の1978年に、社内留学制度で米スタンフォード大学へ留学。

新幹線の列車制御装置を開発

新幹線の自動運行管理「COMTRAC」の制御装置の設計リーダーに。 COMTRACは、新幹線の博多への延伸に伴い、完全自動制御になるという歴史的なプロジェクトだった。 それまでは監視(モニタリング)はコンピューターでやっていたが、運行管理はまだ人手だった。

マネジメントを学ぶ

国鉄から100人の技術者が工場に常駐。一緒にシステムをつくる日々。 数百人規模のチームをまとめるリーダーとなった。 設計だけでなく、マネジメントの仕事だった。技術だけでは済まない。 コミュニケーションの重要性を体で覚えるきっかけになったという。 見事に成功へ導いた。

いきなり欧州法人の社長に

1998年、日立ヨーロッパ(ロンドン)の社長に就任。日立の製品を欧州で売る販売統括会社だ。工場一筋から、初めての海外勤務にして、現地の経営を任された。

赤字の立て直し

当時、日立ヨーロッパは当時。売上2000億円のうち7割が半導体。半導体のうち8割がDRAMなどの標準品(コモディティ)だった。しかし、DRAMの収益が急に悪化していた。

ソリューション営業への転換

DRAMのようなコモディティ品から手を洗い。システムLSIに切り替えることが急務だった。システムLSIは納品先の企業向けにカスタマイズしなければならない。となると、標準品を売るだけの営業とは全く異なる「ソリューション営業」に転換しなければならない。「それを実現できるのは中西だ」という上層部の意向が働いたようだ。

GSM用システムLSIで伸びる

中西氏はその期待にこたえ、当時伸びていた欧州式携帯電話「GSM」の現地メーカー向けのシステムLSI事業に尽力。売上を伸ばした。

国際派に転換

その後、欧州総代表、北米総代表を歴任。すっかり国際派になった。

買収した米国HDD会社の社長に

2005年2月、米国の「日立グローバルストレージテクノロジーズ」(HGST、カリフォルニア州)に赴任。米IBMから2003年に買収したハードディスク・ドライブ事業だ。約2500億円で買い取ったが、業績不振で赤字を垂れ流していた。

調査目的で派遣される

当初は、赤字の原因を究明するのが目的だった。社長になる予定ではなかった。当時の庄山社長の指示は「あいつら言うことがコロコロかわって、信用できない。なぜそうなるのか、調べてこい」というものだった。

「こいつら経営していない」

現地での2か月の調査を経て「こいつら経営していない」との結論に達し、庄山社長にその旨を報告した。庄山氏は「じゃあ誰に経営やらせる?」と聞いてきたので、中西氏は「私しかいないんじゃないですか」と正直に言ってしまった。火中の栗をひろう形でそのまま社長に就任する。

歩留まり3割の言い訳をするIBM出身のエリート

まず、ヘッドの歩留まりが3割にとどまっているのが問題だった。 社員の多くは、買収前から働いている元IBMのエリートだった。 中西氏は「歩留まり3割はダメだ。是正せよ」と言うが、元IBM社員たちは口が達者で、大量の言い訳レクチャーを聞かされた。

ライバルの工場を視察

正しい情報を把握するには「競合相手に聞くしかない」と考え、ライバルの工場を視察する。 作業者に「歩留まりいくつ?」と尋ねたら、自慢気にこたえてくれた。 この視察の結果を自分の会社の連中に伝えると、俄然やる気になったという。

バラバラな組織

HDDは4つの要素で構成される。「円盤」「読み取り(ヘッド)」「サーボ」「アルゴリズム」だ。 中西氏の分析では、HDD会社は、この4つがバラバラだった。 4つの部品の全体を見られる人がいなかった。 専門分野に関しては頭がよく、プレゼンがうまい人は大勢いる。 だが、そんな「頭の良い人たちの集合体」のような組織では、コモデティビジネスは勝てない、というのが、中西氏の判断だった。

ストリートファイターを外から起用

そこで、ストリートファイター的な幹部を外から起用していった。 やがてIBM出身のエリートたちは抜けていき、経営陣20人のうち最終的に残ったのは1人だけだったという。

黒字転換を達成

2008年には黒字化を達成する。 ただ、米国HGSTの立て直しに取り組んでいるうちに、日立本体での籍がなくなっていた。 2009年に川村隆体制が発足すると、副社長として本体に呼び戻される。

略歴

1970年、日立製作所
1993年、大みか工場副工場長
1998年、日立ヨーロッパ社社長
2003年、執行役常務
2004年、専務
2009年4月、副社長

人柄・性格

・豪放磊落(ごうほうらいらく)を絵に描いたような人物
・べんめえ調
・気さくな人柄

社長時代の実績・取り組み

川村会長との関係

社長就任後、改革をめぐり、整理・統合や買収についてほとんどズレが生じなかったという。 モノの見方や発想が近く、距離感がほとんどなかった。

制御技術(OT)

長年、自ら手掛けてきた分野でもある「制御技術」(OT)に注目した。 日立には、製造、流通、金融など業界ごとの知識・経験がある。 制御技術とITを組み合わせ、他の会社にはできない業種ごとにサービスを構築する、というビジネスモデルを目指した。

プロジェクトの元締めに

様々な業種のお客さんのためにプロジェクトのアイデアや中身を考え、立ち上げ、仕切る。すなわちプロジェクトの元締めになる。 完成後は保守もやる。お客さんのオペレーションに深く入り込のだ。 これぞ「ソリューション」ビジネスだ。

「製品売り」から「サービス化」へ

「製品売り」から「サービス化」へ、ビジネスモデルを変えることにした。

高度な社会インフラを提供

とりわけ世界各国の都市開発に伴う鉄道や発電などの需要な着目。高度な社会インフラを提供するビジネスへの転換を図った。

研究体制の改革とCSIの導入

研究体制を3層に分けた。 以下の3つだ。

  1. 基礎研究
  2. テクノロジーをプロダクトと一緒に開発する
  3. 研究者が顧客とソリューションを共同開発する。お客の言っていることをビジネスモデルにして、シュミレーターにのっける。「社会イノベーション協創センタ(CSI)」という名称をつけた。東京・赤坂、シリコンバレー、ロンドン、中国、シンガポールに拠点を開設した。

「BtoC」からさりげなく撤退

「BtoC」からさりげなく撤退。法人向けに特化していった。

米国HDD事業売却

自ら再建させた米国HDD事業の売却に踏み切った。儲かるようになったはなったが、毎年、倍々ゲームだ。現場知ってて迅速にバシバシっと設備投資できる人じゃないとダメ。「これをずっと日立から送り込んだ経営陣がやるのは無理だ」と判断。「高い時に売ったほうがいい」として、2010年11月、米ウエスタン・デジタル(WD)に売却した。

三菱重工との「丸ごと」統合構想は消える

2011年8月4日、日経新聞が朝刊一面で「日立・三菱重工統合へ」と報じた。誤報だった。構想自体はあったようだが、あっという間に消えていった。

水力発電システムで新会社

三菱電機、三菱重工業と、水力発電システム事業に特化した新会社を2011年10月に設立。

火力発電を手放す

2012年11月、三菱重工業と「火力発電システム」事業の統合を決めた。三菱重工が65%、日立が35%を出資する新会社に移管。本体から火力事業を切り離した。

火力発電は日立にとって源流の事業だったが、出資比率でマイノリティを受け入れた。米ゼネラル・エレクトリック(GE)や独シーメンスに負ける恐れがあり、世界で戦うために統合が必要だと考えたという。(最終的には三菱重工の100%になり、日立は手放した)

ついに「御三家」改革

日立金属と日立電線を統合

2013年、日立金属と日立電線を経営統合させた。 「御三家」と呼ばれた日立金属、日立化成工業、日立電線という素材メーカー3社のうちの2社だ。 日立の本体から離れた時期が早く、独立心が強い会社だった。 日立は伝統的にグループ会社の独立性を尊重してきたので、御三家は改革の手が及ばない、いわば聖域と化していた。 ところが、日立電線がどうにも単独で生き残る体力がなくなっていた。そこで中西氏は経営統合を決断した。

人事と人材育成

経営者の候補をそろえる

40代の社長候補を選抜して、経営者として育てた。 買収した海外企業や一流のグローバル企業から人材を引き抜いた。

グループ人材データベース導入

2012年度にグループ約25万人(全社員30万人から工場勤務などの5万人を除く人数)の従業員を対象とした人材データベースを構築した。事業部や子会社による「個別最適」の人事を改め、グループ内で人材管理を統一したのだ。社員の実績や能力の評価基準も統一した。

欧州時代の経験を活かす

欧州子会社の社長時代の経験を活かした。この会社は各事業部から人材が集まっていたが、人事権はその出身母体が握っていた。 社長の中西氏が「こいつは優秀だから、重要な製品を担当させよう」などと考えて配置換えをしようとしても、本国の事業部に大騒ぎされた。雑音を無視して人事を進めたが、「人事までサイロ化が進んでいて、これでは駄目だ」と考えた。 事業単位、子会社単位の人事とか、日本と海外とか、そんな区別があるようでは先々、人が育たない。それを壊さなければならないと考え、人事制度を統一したという。

海外の社員も同じように評価

海外も対象とした。これにより外国人の活用を進め、人事制度をグローバル化した。事業部や国境をまたぐ異動が可能になった。「 ある地域に固定されて、ポジションもガラスの天井が見えているような状態では先がなくなってしまう。そういう状態では、優秀な人はそのうちに辞めてしまう。優秀な人にこそ、報酬だけでなく先々のチャンス、昇進機会を示さないとダメだ」と考えたという。

鉄道CEOのアリステア・ドーマー氏

幹部に外国人が起用されるケースが増えた。その草分けとなったのが鉄道事業の大手アルストムから引き抜いたアリステア・ドーマー氏だ。

中計は未達

2015中計(2016年3月期決算を目途)」で、営業利益率7%超が未達に終わった」

【失敗】英国で電力会社を買収

2012年10月末、イギリスの電力会社「ホライズン・ニュークリア・パワー」買収。買収額約900億円。 中西氏が主導した。英国で電力会社のオーナーとなり、自分たちの設備を納めるという計画だった。海外では原発の納品した実績がないため、それをつくるのが目的だった。英国で実績があれば、他の欧州諸国などからも信頼され、受注しやすくなる。 経産省が掲げる「原発輸出」に合致していた。しかし、買収後も原発の建設は進まなかった。結局、断念に追い込まれ、巨額の損失を出した。

座右の銘、モットー

「好きこそものの上手なれ」。つらい仕事も一生懸命続ければおもしろくなる。そして伸びる。

趣味(社長就任時)

趣味は山登り。最近は年1、2回程度。

社外での役職

経団連会長

2018年5月、経団連会長に就任。 体調不良により、2021年6月1日付で退任

死去

2021年6月27日

享年

75歳

死因

リンパ腫

動画

<2017年の講演▼>

東原敏昭

(ひがしはら・としあき)

【期間】
2014年4月~
2021年6月
※当初は兼COO。2016年から兼CEO。2021年6月から2022年3月まで会長兼CEO。

東原敏昭

中西体制の大胆な改革路線を継承し、発展させた。海外で次々と大型買収を行う一方で、事業や子会社の売却も加速。ネアカ系の国際派。

【生まれ】
1955年2月16日

社長就任時の年齢

59歳

社長就任前の役職

専務(社内カンパニーであるインフラシステム社の社長)
※専務になってから1年も経っていなかった。副社長が6人いた。社内の序列はナンバー10くらい。

他の主な役員人事

中西社長は会長兼CEOに。 川村会長は相談役に。
※社長就任から2年間は中西氏がCEOだったが、実務や組織変更、人事には口出ししなかったという。

内示

2013年12月13日、本社27階の社長室に呼ばれる。 「おれの次の社長、やってくれねえかな」。 翌日、ゴルフ大会でクラブハウスにて川村会長から「社長やれ」。 2014年1月8日発表会見が行われた。

選定経緯

社長人事の2年前、当時の川村会長から「5人の候補の1人だ」と言われたという。 一方、中西宏明社長が冨山和彦氏との対談本「社長の条件」で語ったところによると、社長候補は3人に絞られており、その3人と取締役に伝えたという。

出身地

徳島県小松島市

出身校(最終学歴)

徳島大学(工学部)電気工学科
※1977年卒業

入社年次

1977年
※同期入社は約500人(少な目)

キャリア

1977年日立製作所入社

最初の配属先

「大みか工場」(茨城県日立市)
※鉄道や工場設備の制御系システム。顧客は鉄道、電力会社、自動車メーカーの工場など多岐にわたる。
※研修が終わるころ、「制御がおもしろそうだ」と希望した。

設計実習で中西氏の指導

入社後、半年間は「現場実習」。 その後、「設計実習」がスタート。「計算制御設計部」に所属し、制御用コンピューターのOSを設計しながら、OSの仕組みを理解する。プログラミング言語で書かれたOSを、フローチャートにするなどの実習カリキュラムだった。 そのときの指導担当が、設計部のエリート社員だった中西宏明氏。単に技術を叩きこむのでなく、常に「なぜ」を考えさせ、仕事の意義を理解させるという指導法だった。また、毎週の実習レポートは英語で書かされた。中西氏からは1年弱指導を受け、「メンター」となった。

検査部門一筋で約20年

実習後、「検査部」(後の品質保証部)を希望し、配属される。 工場でつくったシステムを納入する前に検査する部署だ。 納入先でシステムが正常に動くか確かめる。トラブルがあれば解決する。さらに、納品後のクレームの受付窓口となる。

多彩な現場を経験

なぜ検査部門を選んだのか。 自著「日立の壁」では、「設計や開発だと一つのシステムに携わるだけ。検査なら全部を見られ、多くの現場に関われる」と説明している。実際、多彩な業種の現場経験を積むことになる。

「火消し役」

以来、20年近くにわたって検査部(後の品質保証部)に所属し、全国を飛び回った。 所属課は、ソフト検査課など。 納品後、トラブルの原因を特定し、工場の設計部や開発部と連絡を取り合って修理する、という任務を担った。 「困ったときの東原」「火消し役」などと呼ばれるようになった。

JR東日本の運行システム開発

一番長く携わった仕事はJR東日本と共同開発した列車運行管理システム「ATOS」。

その他の業務の例
  • 証券取引所の新システム開発プロジェクトのリーダー
  • 自動車工場のオートメーション工程制御
  • たばこ工場の紙巻システム
  • 電力の送配電システム

など

交通システム設計部長(大みか電機本部)

44歳のとき、大みか電機本部 交通システム設計部長に就任。 部長室の割り当てを拒否し、課長と主任技師の真ん中に席を置いた。 エンジニアでなく総合的な管理職になったことで、 夜は営業が入るようになった。 夜の読書ができなくなり、朝4時に起きて読書するようになった。 その後、2年間、情報制御システム事業部事業部長(大みか)を務める。

ドイツの子会社を再建

2008年4月、海外へ転勤。日立パワーヨーロッパ(ドイツ)社長というポスト。
※火力発電プラントの設計・建設会社で、日立が2003年に買収した。以来、ドイツ人CEOのもとで赤字が続き、着任したときには債務超過寸前だった。 日立本社に資本注入を要請し、破綻を回避。2009年度の決算で単年度黒字化を達成した。

日立プラントテクノロジー

2010年4月に帰国し、日立プラントテクノロジー社長に就任。
※上場企業だったが、2010年4月に日立製作所が完全子会社し、本体に取り込もうとしている会社だった。

略歴

1985年、大みか工場 検査部 ソフト検査課技師
1990年、主任技師
1996年、品質保証部 ソフト品質保証課長(大みか)
1999年4月、大みか電機本部 交通システム設計部長(大みか)
2000年8月、情報制御システム事業部 交通システム設計部部長
2001年10月、システムソリューショングループ情報制御システム事業部 電力システム本部本部長
2004年4月、情報制御システム事業部長
2006年4月、理事:情報通信グループCOO
2007年4月、執行役:電力グループCOO
2008年4月、日立パワーヨーロッパ(ドイツ)社長
2010年4月、日立プラントテクノロジー社長
2014年4月、日立製作所の社長
※2014年4月から兼COO。2016年から兼CEO
2021年6月から2022年3月まで会長兼CEO

社費留学

34歳のとき、1989年9月から1年間、米ボストン大学院に留学。 専攻はコンピューター・サイエンス。 通常は2年以上かかる修士号を1年で取得するという荒業をやってのけた。
※自費で家族を同伴。息子を地元の公立高校に入れて、PTA活動にも参加。

社長時代の実績・取り組み

大型買収

後半の3年間には、2件の「1兆円」買収を実現させた。

東原体制下の買収一覧
発表年 買収先(業種) 買収額
2017年4月 米サルエアー(空気圧縮機メーカー) 1400億円
2017年4月 米JRオートメーション(工場の自動化サービス) 1600億円
2018年12月 スイスABBの送配電事業(産業用電機の世界最大手) 1兆円
※2022年12月完了
2019年6月 蘭シャシー・ブレーキ(自動車部品メーカー) 800億円
2020年1月 日立ハイテク 5300億円
※TOBにより株式保有比率を52%から100%に引き上げて完全子会社に。
2021年3月 米グローバルロジック(ITサービス) 1兆円
※2021年7月完了
2021年8月 仏タレスの鉄道信号事業(電子機器メーカー) 2800億円
※2024年5月完了
【1兆円買収】米グローバルロジック買収

2021年、米グローバルロジック(GL)を買収した。 これにより、ソリューション提供会社として必要な要素をそろえることができた。 GLは、企業の業務のIT化を得意とする会社である。 本社はシリコンバレー。 2000年9月設立。ソフト開発の海外アウトソーシング業務を請け負う会社としてスタートした。 以下の2点が魅力だった。

  • 顧客企業にどっぷり入り込んで課題を特定し、成長への道筋を描く人材
  • 課題を短期間で解決するソフトウエア技術者。顧客の課題を特定したら、それを解決するソフトを翌日に届けられる開発力を持っている。例えば、医療機器販売の会社にサブスク型サービスを導入し、医療機器から収集するデータを次に成長に糧にする。

これらの資産を、鉄道や送電線のビジネスにも生かしていく。

【1兆円買収】スイスABBの送電線事業を買収

2020年7月、スイスABBの「送電線機器」事業を買収した(買収発表は2018年12月)。 これにより、送電線で世界一になった。

世界シェア1位の事業を

世界シェア1位の事業がなかった。そこで買収によって1位の座をとることにした。

2020年7月に株式の約80%を取得。約7400億円。
==>2022年12月に残りの約20%を、約2170億円で買い取った。

日立の送配電事業を統合。 「日立エナジー」(本社:スイス・チューリッヒ)となった。

東原体制下の売却一覧
発表年 売却事業 売却先
2016年5月 日立キャピタル 三菱UFJグループ
2017年1月 日立工機 米KKR
2017年4月 日立国際電気 米KKR
2018年10月 クラリオン 仏フォルシア
2019年11月 日立化成 昭和電工
2019年12月 画像診断事業 富士フイルム
2020年12月 海外の家電事業 株式の6割をトルコの家電メーカー大手、アルチェリクに売却
2021年4月 日立金属 ベインキャピタル等
2022年1月 日立建機の26% 伊藤忠商事
2022年4月 日立物流 米KKR
2024年7月 空調事業 独ボッシュ

家電を放出

2020年12月に家電事業の荒療治を打ち出した 低迷していた海外の家電事業の株式の6割をトルコの家電メーカー大手、アルチェリクに売却。 両社で設立する合弁会社で欧州など海外市場の開拓を目指すことにした 今後、国内の家電事業は引き続き日立が、海外の家電事業はアルチェリクと立ち上げる合弁会社(持ち分比率は日立4割、アルチェリク6割)が担うことになる。日立にとって合弁のメリットは、アルチェリクの海外販売網を活用できることだ。同社は特に欧州市場に強く、白物家電でシェア2位を誇る。

火力発電を手放す

2020年9月、三菱重工に火力発電事業を譲渡した。

英国の原発プロジェクトを凍結

2019年1月、英国での原発の大型プロジェクトを凍結した。

原発の海外事業はGEが主導へ

原発の海外事業はGEが主導へ。

日立化成を昭和電工へ売却

日立化成を昭和電工へ売却した。日立化成株の51%強を保有していた日立の譲渡価格は約4940億円に上った。これにより、21年3月期に2788億円の売却益(EBITベース)を計上する。社名もレゾナックに変更された。 東原社長は「新しい材料の研究開発に1000億円投資して欲しいと言われても、日立全体としてはデジタルへの投資が優先される」と考えた。

IoTプラットフォーム(ルマーダ)

2016年5月、「ルマーダ」を発表した。

ルマーダとは

日立のIoTプラットフォームのこと。 「ルマーダ(Lumada)」と名付けた。 ルマーダは日立にとって最優先の事業だ。 事業ポートフォリオもルマーダとの相乗効果を踏まえて見直した。

利益率の改善

利益率の改善に取り組んだ。 就任時の2014年3月期は営業利益率が5.6%だった。利益の半分は上場子会社が稼いでいた。 2016年3月期は6.3%へ上昇。 CEO3年目となる2019年3月期には8%の目標を達成した。

日立国際電気を米投資ファンドに売却

2017年には、ソリューション事業との関連が薄い半導体装置を手掛ける日立国際電気を米投資ファンドに売却した。

クラリオンを売却

2018年10月26日にはカーナビを手掛ける子会社、クラリオンを仏自動車部品大手のフォルシアに売却すると発表した。 品質よりも安さが重視されるコモディティーになったカーナビ事業を売却し、経営資源をルマーダに集中する。

ビジネスユニット制(14個)の導入

2016年、社内カンパニー制(9個/2009年導入)の廃止。ビジネスユニット制(14個)の導入。

2016年に組織を簡素化した。階層構造が複雑で目が行き届きにくかったからだ。 売上高が2兆円もあった情報・通信システム部門など大きなセグメントを分割して、14のビジネスユニット(BU)をつくり、 毎月、BU長が議論するようにした。
===>独立性が高くなり縦割り。
==>外部から中身が分からなくなる。
==>不採算事業に手をつけなくなる。
===>経営トップの意向が事業部長や部長クラス以下に伝わらない。
===>連携しながら大きなビジネスがやりづらくなる

「日立ヴァンタラ」設立

ソリューションビジネスの中核となる「日立ヴァンタラ」を米国カリフォルニア州サンタクララに設立。 他社から外国人を多く採用した。 顧客の課題を解決するチームが収益拡大のドライバーになった。 IT部隊が2桁の利益を上げ、社内でリーダーシップを取るようになった。

座右の銘、座右の書

安岡正篤「知命と立命」 44歳のときに出勤前の2時間を読書に費やした。そのとき出会った。

動画

<2024年のインタビュー▼>

小島啓二

(こじま・けいじ)

【期間】
2021年6月23日~
2025年3月
※当初は兼COO。2022年4月から兼CEO。

小島啓二

研究・開発畑。東原社長の下で中核事業のITビジネス担当。やや短期間で退き、次世代にバトンタッチした。

【生まれ】
1956年10月9日

社長就任時の年齢

64歳

社長就任前の役職

副社長
※取締役ではなかった

前任者の新ポスト

東原社長は会長兼CEOに

社長人事の発表日

2021年5月12日

人事の背景

中西宏明会長の病状が悪化。2021年5月12日付で急遽退任。

出身地

東京都中野区

高校

大阪府立豊中高校

出身校(最終学歴)

京都大学大学院(理学研究科修士)
※1982年修了
大阪大学大学院博士課程修了(情報科学研究科)
※2005年修了

入社年次

1982年

キャリア

生粋のIT研究者。理系の秀才が集まる「技術の日立」において、研究・開発畑エリートコースを歩んだ。

中央研究所から「CTO」に

東原社長体制が発足した2014年、中央研究所から「CTO」に就任。

買収攻勢を支える

東原氏が進める買収攻勢を、「技術戦略」の面から支えた。 買収先企業の選定にあたっては、技術よりも「顧客の業務知識や顧客ネットワーク」を重視した。 顧客との関係や知識を持つ企業を日立グループに取り込み、そこに日立のテクノロジーを投入するというアプローチをとった。。

略歴

1982年、日立製作所入社
1989年~1990年、カーネギーメロン大学派遣
1996年~1999年、米国日立コンピュータプロダクツ
2000年、システム開発研究所第三部長
2003年、システム開発研究所情報サービス研究センター長
2004年、ユビキタスプラットフォームグループインターネットプラットフォーム事業部副事業部長
2006年、中央研究所組込みシステム基盤研究所長
2007年、中央研究所情報システム研究センター長
2008年、中央研究所長
2011年、日立研究所長
2012年、常務(日立研究所長)
2014年、常務兼CTO(最高技術責任者)兼研究開発グループ長
2016年4月、専務 サービス&プラットフォームビジネスユニットCEO
2016年6月、日立インフォームドテレコミュニケーションシステムズグローバルホールディングス(現日立デジタル)取締役会長兼CEO
2017年、日立データシステムズ(現日立ヴァンタラ)取締役会長
2018年、副社長
2021年、社長兼COOライフ事業統括本部長 ヘルスケア事業成長戦略本部長
2022年、社長兼CEO兼イノベーション成長戦略本部長
2025年4月、取締役副会長

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

「頭脳明晰だが偉ぶらない」として、部下からの人望も厚い。 対話とチームワークを重視。

日立が成長の核に位置付けるIoT(モノのインターネット)ソリューション、ルマーダの開発を主導した。 その後、サービス&プラットフォームビジネスユニットCEOを歴任するなど事業にも精通。

日立ハイテク

「物腰柔らかな剛腕」と評された。 上場していた日立ハイテクの完全子会社化にあたり、相手の経営陣を説得。 買収後の運営も含めて「難しいオペレーションを確実に実行した」として、前任の東原社長から厚い信頼を得た。

社長就任時の抱負

「歴代の社長から私が引き継ぐ最大の財産は一流のグローバルだ。そういう人たちと徹底的にコミュニケーションをして、次の日立をつくっていくのが私の一番やりたいこと」

「もう一度、研究開発に重点を置く」と、M&Aだけに頼らない成長戦略を掲げた。

社長時代の実績・取り組みなど

自動車部品子会社を非連結化

2023年10月、自動車部品子会社「日立Astemo(アステモ)」を非連結化した。 2020年度にホンダ系自動車部品メーカー3社を統合して誕生して会社だった。
小島社長は「自動車部品は、基本的に規模の経済が働く。自動車が本業ではない日立のような会社が、十分なスピードと情報で経営するのは難しい」と判断した。

医療機器事業を、日立ハイテクに統合

2024年4月、医療機器事業を、日立ハイテクに統合した。 健康領域なら、日立ハイテクが持つ計測や分析の技術を生かせる、と判断した。 日立グループから3人のノーベル賞候補が出たが、いずれも計測系の研究者だった。

動画

<2024年の基調講演▼>

徳永俊昭

(とくなが・としあき)

【期間】
2025年4月1日

※当初から兼CEO。

徳永俊昭

父親が日立社員で、日立創業の地・日立市(茨城県)で生まれた生粋の日立人。常務時代に米グローバルロジックの買収を担当。

【生まれ】
1967年3月15日

社長就任時の年齢

58歳

社長就任前の役職

副社長(IT部門担当)

前任者の新ポスト

小島啓二社長(68歳)は副会長に

他の主な役員人事

東原敏昭会長(69歳)は留任

社長人事の発表日

2024年12月16日

人事の背景

社長レースの大本命が順当に昇格した。 前回の社長交代の際も候補者の一人だったが、そのときは副社長になったばかりで時期尚早として抜擢は見送られた。 満を持してのトップ就任。

出身地

茨城県日立市

高校

水戸第一高校(茨城県立)

出身校(最終学歴)

東京大学(工学部 機械工学専攻)
※1990年卒業

入社年次

1990年

入社理由

就職活動では早々に重工大手から内定を得た。 父親は将来のIT社会の到来を説き、日立の情報システム部門を勧めた。 日立の幅広い事業を知り、秋採用で日立入り。

キャリア

システムエンジニア

システムエンジニアとして、情報システム畑を歩んだ。 金融システム部門出身。 49歳で、家電事業を行う日立アプライアンス社長に抜てきされた。

銀行大合併の荒波

2000年代の金融大再編時代のシステム統合作業にも携わった。日立の手掛けた銀行システムが合併相手のものに置き換わる。日立として顧客を失うことになっても「この銀行統合が日本の金融を強くする。最後まで顧客に尽くそう」とメンバーを鼓舞した。

家電部門の社長に

2017年、49歳の若さで家電事業会社の社長に就任。

米グローバルロジックの1兆円買収を担当

2021年に1兆円を投じた米グローバルロジックの買収を主導した。買収後の統合作業も担当した。 2021年4月に副社長に就き、主力のIT部門を率いた。

略歴

2009年、金融システム事業部 事業戦略本部担当本部長
2017年、日立アプライアンス(現日立グローバルライフソリューションズ)社長
2019年、常務
2020年、専務
2019年、2020年とカリフォルニア州のサンタクララで「日立ヴァンタラ」の責任者
2021年、副社長

幼少期

父親も日立社員

父親は日立のガスタービン(重電部門)の設計者。 幼稚園のころから日立の社宅で暮らした生粋の「日立人」。

ニックネーム

日立の子

座右の銘、モットー

「すべての起点は自分にある」

動画

<2024年の基調講演▼>